見出し画像

南朝正統皇位継承論12-富士谷の伝説3(富士谷御所壊滅)

富士谷の伝説3(富士谷御所壊滅)

小室城地図1

『富士谷 長慶院仙洞御所略図』より一部を転載させて頂きました。

崇神天皇の御代「三品の大宝」を奪われた富士高天原は、応神天皇の皇子「大山守皇子」の来麓で勢いを盛り返したが、桓武天皇の延暦19(800)年、未曽有の大噴火で被害を受け壊滅状態となった。

その後、治承4(1180)年の頼朝の挙兵を支援したことが幸いし鎌倉幕府から厚遇され昔の繁栄を取り戻した。

元徳2(1330)年、後醍醐天皇の王政復古・討幕の密旨が伝えられるや、富士山浅間宮大宮司家をはじめとする富士高天原末裔たちは「富士高天原」復活の願望を夢見て一族を糾合して一大活動を始めた。

南北朝時代、富士谷は南朝の秘密基地だったと云うのである。

1、富士谷御所壊滅

富士谷

天授5(1379)年、三河吉野朝が崩壊すると、長慶院法皇・皇太后小室門院を始めとする三河吉野朝の宮人らが富士谷へ潜行した事については、「南朝正統皇位継承論9(№197)1、三河吉野朝の崩壊」でお話ししました。

室町幕府の第三代将軍足利義満が、元中5(1388)年、駿河で富士山を遊覧したという記録があります。

・・・元中5年/嘉慶2年(1388年)には駿河で富士山を遊覧し・・・
  (『ウィキペディア』足利義満#家督・将軍職相続

三輪義凞著『長慶天皇紀略』には、同じ年の元中5(1388)年、義満が武運長久祈願と称し富士谷に下向したと、下記の様に記されています。

元中五戊辰〔1388〕年六月四日、足利将軍義満、武運長久祈願と称し、富士谷に下向す。是より先、南北両朝に偏倚〔へんい〕せずと称したりし、富士神宮の大宮司、三浦越中守義勝の、新田義宗等を指呼して、足利氏と戦ひ、戦死せし以来、足利氏、深く富士谷を疑ひ、常に間諜を縦〔はな〕ちて、之を詗〔うかが〕はしめ居たりしが、今や、其疑ふべきもの多かりかるけるにや、義満自ら大軍を率いて来る。六月二日、義満来ると告ぐるものあり。谷々の上下、沢々の貴賤、皆な色を失ふ。測ち、畏れ多くも、院は皇太后及び諸皇子と、前関白藤原師基・三条景家・藤原隆家・児島高徳入道志純・名和長重・其弟長生・得能通信等を、召し具して、御祖代山の桃沢の風泉池の宮を出御あらせられ、更に、奥深き沢へ潜幸なる。富士谷の諸将、争うて衛護し奉る。(三輪義凞『長慶天皇紀略』71~72頁、〔 〕内、編集者)

三浦芳聖は、三浦家の系図に、「小室門院桑年の御時(48才)、富士の皇居は、足利義満自ら率いる15萬の大軍に乾皮無きまでに粉砕された」と記録されていたと述べています。

興国2(1341)年生れの小室門院桑年の御時は元中5(1388)年に当ります。

上記の『長慶天皇紀略』には「義満自ら大軍を率いて来る。」と記されているだけですが、上記の三資料を総合すると、この元中5(1388)年に小室門院や松良天皇の富士谷御所が攻撃され、壊滅状態に陥ったと考えられます。

2、松良天皇、遠州京丸に御駐留

三浦芳聖は、三浦家の系図には「松良天皇、しばし遠州京丸に御駐留、第一皇子美良親王降誕、皇太后崩御」と記されてあったと述べています。

足利義満自ら率いる15萬の大軍により富士谷御所が壊滅した後、松良天皇は、皇后綾子姫と共に側近の臣下らに護衛され、遠州京丸へ落ち延びられたようです。

京丸

美良親王の降誕は、応永元年(1394年)です。(京丸・・・静岡県浜松市天竜区春野町京丸)

松良天皇の御母「小室門院元子内親王」は、遠州京丸に集結していません。御所が急襲された時に連絡が取れなかったのでしょうか。三浦家の系図にも青木文献にも落ち行き先の記録がありませんでした。

【参照】京丸(静岡県浜松市天竜区春野町小俣)

また長慶院法皇は、元中5(1388)年には、御鏡を奉持して全国を遊説行脚しておられたものと思われます。

天授・永和4年(1378年)、落飾法衣を着し諸国行脚に出立。(後太平記)

元中2年(1385年)9月10日、宸筆御願文あり。紀伊の天野行宮に於て丹生明神に戦勝を祈願。「太上天皇寛成」の名で高野山丹生社に宸筆願文を納めた。

譲位後2年程は院政を敷いていた証拠があり、元中2年/至徳2年(1385年)9月「太上天皇寛成」の名で高野山丹生社に宸筆願文を納めたが[注釈 7]、翌元中3年/至徳3年(1386年)4月に二見越後守宛に下した院宣を最後に史料の上から姿を消している。(『ウィキペディア』長慶天皇

元中8(1391)年頃には後征西将軍宮・良成親王でさえ、上皇の所在がわからなかったといいます。(五条家文書)   長慶天皇陵(浮島陵)

3、京丸の神風串呂

京丸

【参照】山崎町御名と木曽岬町松永の神風串呂 (№84)
「和田」-「和田」-「天王」-「和田北」-「多賀」-「御名」-「松永」-「京丸

京丸を行在所とされた天皇の御名は松永(木曽岬町)である。和田三串の絶対確証の神風串呂です。

木曽岬町松永3

【参照】福山市松永町と遠州京丸の神風串呂(№88)
「御所野」-「聖崎」-「松永町」(福山市)-「竜王山」-「竜王山」-「金甲山」-「多賀」-「石薬師」-「小丸町」-「明神山」-「平和」-「京丸」-「聖岳」

京丸を御所とされた聖(天皇)は、金星甲辰年の松永(松良)天皇である。

浅口市寄島町竜王山

【参照】舞鶴市大君と浜松市京丸の神風串呂(№89)
「正法寺」-「大君」-「世継」-「明徳」-「一色」-「産場」-「京丸」-「正島」-「無双連山」

正統の明徳大君(松良天皇)の無双に連なる世継が京丸で降誕した。

米原市世継

「松良天皇」の「世継」は大宝天皇でありますから「京丸」に於て「大宝天皇」が御降誕されたことが解ります。皇紀二〇四八年〔1388年〕に富士の皇居が乾皮無きまでに粉砕せられて、「京丸」に集結されたのは何年頃になるか解りませんが、「松良天皇」の世継「大宝天皇」が皇后腹で御降誕になったのは、皇紀二〇五四甲戌年〔1394年〕であります。(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』244頁、〔 )内、編集者)

京丸と三浦芳聖降誕地との神風串呂(№99)
「由良」-「一色町」-「大宝天皇終焉の地・三浦芳聖降誕地・大門」-「高松」-「京丸」-「大門」

京丸で降誕し牧平大門で崩御した美良天皇は尊良、松良の嫡孫である。

洲本市由良

【参照】京丸についての詳細はこちらをご覧下さい。


前号(№199)       次号(№201)

串呂哲学研究ノートバックナンバー(総合)

情報拡散のお願い

 この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖の伝記及び三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
 三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

**********************************

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

(出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。)
**********************************
最後までお読みいただき有り難うございます。Facebookグループ 串呂哲学研究にご参加下さい。アップデートがすぐに分かります。
https://www.facebook.com/groups/462542897709938/
グループだけの最新情報もあります。
**********************************

いいなと思ったら応援しよう!

串呂哲学研究ノート(鈴木超世志)
串呂哲学研究ノートは、読者の皆様方の財政的ご支援により活動が維持されています。理解しやすい記事作成のために諸般の費用が掛かります。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。読者の皆様方のご支援に感謝しています!