ぬいぐるみへの愛に悩んだときに
こんばんは。アドベント交換日記三日目の担当は「虹色の水晶窟に住む蜥蜴」(命名:吉田)こと川野芽生です。
蜥蜴なので心中とかシリアルキラーとか愛とかはよくわからない。変温動物なので。
このあいだ、ある怪獣となぜか「寒さについてどう思う? 暑さは?」という会話をして、私はひたすら「寒さは美しい。暑さは美しくない。涼しさはきれい。あたたかさはかわいい。ぬるさはなんか不潔。熱も焔まで行けば美しい」といった返答をしていたのですが、最終的に「君にとっては体温に近いと美しくないんじゃない?」と言われて腑に落ちました。美しいと思うのは、人類滅亡後のつめたい星空や、恐竜や海百合。
吉田さんは「世界のドラマティックさを信じるためにわたしたちは劇場に行くのでしょうか? それとも世界や人間が凡庸であるからこそ劇場にドラマを探し求めるのでしょうか?」という問いを残してくれました。
いわゆる現実も、いわゆるフィクションも、人間が作ったものであるという点で変わるところはないように思えます。現実はフィクションです。人は驚くほど、自分たちの作り出した物語に沿ってものごとを理解するし、行動します。想像力は現実の鋳型です。
でも現実は多くの場合、あまりにも安っぽいフィクションです。フィクションのたいがいが安っぽいフィクションなのだから、しょうがないのかもしれない。
山城さんと吉田さんが愛の話をしてくれたので、わたしも自分にできる愛の話をしようと思います。
わたしが愛について初めて悩んだのは、小学校の低学年のときだったと思います。
ぬいぐるみへの愛についてでした。
誕生日だったと思います、くまのチェリーちゃんがわたしのもとにやってきたのは。オレンジがかった金色のモヘアの毛並みに、オレンジ色のリボン、透き通った焦げ茶色の眼をした、とても美しいくまです。
それまでもわたしはたくさんのぬいぐるみたちと暮らしていました。ひつじやステゴサウルスやあざらしや象たちと。でも、チェリーちゃんの訪れは、わたしにとって、特別でした。わたしはとても幸せでした。
寝る時間になって、いつものようにぬいぐるみたちをベッドの足元に並べました。そこにチェリーちゃんも加わりました。
だけどわたしは眠れませんでした。すぐに起き上がって、足元のぬいぐるみたちを眺めました。わたしの視線は、どうしても、どうしても、チェリーちゃんに戻ってきてしまいました。他のどのぬいぐるみとも比べものにならないくらい、チェリーちゃんは美しかった。きれいでした。かわいかった、のです。片時も離れたくない、眠っているあいだ足元に置いておくのも落ち着かないくらい。
愛に差をつけるのは不当なことだと思いました。見た目の美しさを愛するのも、間違ったことだと思いました。だけど、ぬいぐるみに見た目以外の何があるのでしょう? いえ、そうではなくて、かれらには心があって、話しかければ答えてくれるのだけど、それはわたしが与えた心であって(少なくともわたしが触れることができるのは)、かれらを「選ぶ」際の判断材料にするのは、それもまた不公平なことで、わたしはチェリーちゃんを抱き上げて、抱きしめて眠りました。
いまもそうして眠っています。足元にはいまもひつじやステゴサウルスやあざらしや象たちがいます。わたしとぬいぐるみたちとの愛についてはいまも答えが出ないまま、かわいい、いとおしいという思いも、心の痛みもそのまま。
心が痛むのは、ぬいぐるみに対してこちら側(なんと呼べばいいのでしょう、持ち主とは呼びたくないけれど、その言葉を避けるのも欺瞞なのかもしれない)が負う責任の重さゆえだと思います。
愛とは相手の幸福を願うこと、だとわたしは思っているけれど、ぬいぐるみにとっての幸福とは何なのでしょう。ぬいぐるみはわたしと無関係に勝手に幸せになってはくれません。かれらの生命も、心も、わたしのなかに、あるいはわたしにおいてのみあって、わたしがかれらを生かし続ける限りにおいて、かれらの幸福もありうるのだとわたしは思っています。
被造物を愛する神様もこんなに愛(かな)しくて哀(かな)しい気持ちなのかなあ。
ぬいぐるみへの愛に比べると、人間への愛は驚くほどかんたんなものに思えます。
人間にはわたしとは独立の心があって、その心を愛するのは容易だし、わたしとは独立の生命、独立の幸福があって、わたしがいなくても、わたしとは無関係のところで幸福になってくれることができて、わたしは遠くからその幸福を願うかたちで愛することができるからです。
わたしがあなたを忘れても、あなたがわたしを忘れても、あなたは消えたりしないし、わたしがあなたを愛さなくても、わたしがあなたを幸福にしなくても、あなたは自分を愛して自分を幸福にすることができる。
それが人間のいいところで、わたしはその意味では博愛主義者だと思う。わたしはわたしのぬいぐるみを愛するから、あなたもあなたのぬいぐるみを(あるいはぬいぐるみではない何かを)愛して、交わらないまま生きようね。
次回は「一切は空」を唱えるひつじのまるちゃんと同居する斉藤志歩です。唯心論的人間無関心派で、興味がないものに対する興味のなさはわたしを上回ります。
斉藤さんにとって、ぬいぐるみ(への愛)ってどういう存在ですか?
この記事は怪獣歌会アドベントカレンダー4日目の記事です。
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