うっかり人を救わない話
鳥居です。
斉藤は前回、「どうでもいい話、どうでもよくない話についてもっと聞かせてください」と言ってくれました。
私はこのバトンを受けてやべえと思った。
私はQuaijiu Free 1 に載せた図で物語の話をして、斉藤はそれを拾って「人生に物語を求めていない」と言い、そして「どうでもいいような事が書かれている」俳句に惹かれるって話をしたんだよね。
私ははっきりと言語化してなかったんだけど、斉藤の方がわかっていたことがあって、それは「どうでもいい話と物語は真逆の存在」だということだったんだよ。
まずなんで物語なのって話ですが、人の感情を動かしたいとき、人は何をするかって言うと物語なんだよね。
人間はなぜか物語を喜んで聞くし、しかもその物語で心を動かされたりする。
導入があって中身があってオチがある話をどうでもいい話だとはあまり思わないし、命乞いをするときに何を話すかって「身の上話」つまり自分の物語だよね。物語をすることで相手の心が動かされることを期待しているわけだ。
こう考えると、物語ってめっちゃ悪いことに使われてない? もしくは使えそうじゃない? と思うわけです。じゃあその悪に対抗するにはどうしよう、とか、どうやって物語を使って悪いことをしよう? とか考えたくなる。そのためには物語の仕組みについてもっと知る必要があるよね。
逆に、どうでもいい話はあまり聞きたがらない人が多い。突然ここで私が道路脇に落ちてる子供靴がめっちゃ黄ばんでたんですよ、みたいな話をしたって、いやお前今まで物語の話してただろ、物語の話をしろよ、それは本題じゃないだろ、となる。
さていきなりですが桃太郎の話をします。桃太郎、好きか嫌いかは置いといてみんななぜか知ってるし、今すぐでも子ども相手に語れちゃったりするよね。
桃太郎は昔話として口伝えで広がって行くような話で、そう考えると広がっていくうちにどうでもいい風景やディテールは削ぎ落とされる、もしくは変化していくのが普通だと考えるわけです。
おじいさんやおばあさんが実際に何歳なのかを知る人は居ないし、芝刈りに行く山がどんな山でどんな草が生えていて、頂上から見た景色がどんな風なのかも想像の中にしかない。ついでにいうと老年で子どものいない老夫婦がどんな気持ちで毎日芝刈りや洗濯に行くかもわからない。
そういうものを語る桃太郎のバージョンももしかしたらあるのかもしれないけれど、二回目に語られるときも同じディテールであるとは限らない。不安定である。
ところが、ですよ。おばあさんは川に洗濯に行くわけですが、そこでどんぶらこ、どんぶらこ、と大きな桃が流れて来るんです。え、今「どんぶらこ」って言った?(地方によっては違う音かもしれません)
もしどうでもいい話が削ぎ落とされて物語になるのだとしたら、このどんぶらこは真っ先に消えるはずだし、実際桃太郎のあらすじを語るときは「編集」されて消えてしまう。けれども、もしどんぶらこって言わない桃太郎のバージョンを考えると、なんだかとても味気ないものに思えてしまう。
つまり、「桃太郎が桃から生まれ、鬼ヶ島の鬼を退治しました」みたいなあらすじだけの物語では人は満足しないんですよ。別に桃太郎に感情移入しなくても桃太郎の話は楽しく聞けるけど、桃がどんぶらこと流れて来なくて、動物をきびだんごで釣って連れて行かない桃太郎はあまりにも何かを失いすぎている。どうでもいいような細かいディテールによって物語は支えられ、強度を持ってるわけです。
人は物語を喜んで聞き、そこに意味を見出す一方で、どうでもいい話を「そんなこと聞いたって意味ないじゃん」みたいな扱いをするわけです。でもその物語自体は、どうでもいい話によって支えられている。(どっかで聞いたような話になってきたね!)
ここで意味とは言ったけれど、意義の方が正確かな。
物語に教訓を求める人はいい話を聞くと「有意義な話だった」とか言うし、物語になろうとしている人はそうすることで自分の人生に意義を与えようとしている。意義は救いとも言えちゃうかな。あなたは必ずいつか死にますが、死後には生前の行動を必ず報われ「良いところ」に行くでしょう、という「物語」は死にゆく人の慰めになるかもしれないけど、10月にあなたが葉っぱを踏んだときカサカサ音が出たね、みたいなどうでもいい話をしたって、そうだね、で終わってしまう。けどうっかり人を救わないところがどうでもいい話の美しいところだとも言える。
小説を書く人はその点はよくわかっていて、あえて物語をやらず、あらすじが意味をもたないような、マドレーヌを食べてぼんやりするような作品とかも世の中にはちゃんとある。そう考えると何か作るときには、物語とどう付き合っていくかみたいなところも考えたいところではある。
生活って物語になる話よりどうでもいい話(=非物語)の方がはるかに多いものだし、ドーキンスの言葉を借りると「自然は人間に説教を垂れるために存在しているのではない」ので、どうでもいい話をもっとしたほうがほんとはいいって話とか、ほんとは物語なんてやんなくても人間は豊かに生きられるって話とか、俳句はその点やべえよどうでもいい話を短さと切れのスピードで読ませるものになっているんだから、という話とかあるんだけど、全部書くには時間がやばいのでこんなところで。
怪獣歌会では一応短歌をやっているわけだけど、短歌って変じゃないですか? どうでもいい話をするには長すぎるし、物語をやるには短すぎる。やましろさんは短歌を作るとき何を考えているんだろう。この連作はこういう話にしよう、とか考えたりする? それともこんな話には興味がないかな?
この記事は怪獣歌会アドベントカレンダー12日目の記事です。
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