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クソみたいな世界で反出生主義者にならなかった人のする話

 鳥居です、前回の斉藤から自由をバトンとして受け取りました。

 自由だ!

 アドベントカレンダーの交換書簡はこれで最後です。そして最後にあんまりいい話をしても仕方ない(寂しくなっちゃうでしょう?)ので、今回は軽い話をします。

 嘘です。

 軽い話しません、なぜなら反出生主義(以下、アンチナタリズムと書きます)がどうしても気に食わないから。
 というのも前々々々回前々々回の書簡で、山城さんと吉田さんが自分はアンチナタリストなんですが、みたいな話をしていたんです。話してること自体は良いことだったんだけど、私の信条には合わないところがあったので、今回は別の話をします。山城さんや吉田さんにとってアンチナタリズムの話が必要であったように、私にはこの話をすることが必要なことだと思うので。

 なお、非アンチナタリストがナタリストなのかって言われると違います。なぜならナタリストとは国家や機関が出生を奨励することに賛成する立場だから。私は国家が生殖に口を出すことには反対です。生殖自体には賛成でも反対でもなく、できる人もいるしできない人もいるので各自のやりたい範囲でお好きにどうぞ、ぐらいのスタンスです。

 とりあえずアンチナタリストの言ってることを軽く調べてみると、だいたいこんなことを言っています。

新たに子どもを生むことは道徳的な罪である。
人間は存在するだけで環境に負担をかける上に、子どもは生まれることに合意できず生まれてくる。この世はクソで加害に満ちているし、生きていても苦しみの方が多い。
 子どもにとっては生まれないことが一番幸せなのだ。

 言いたいことはわかるよ。生きててさ、ちょっとでも考えれば「もしかしてこの世クソでは? 不平等あるし、てか死って逃れられないの?」ってことにぶち当たるよね。
 そしてクソだと「自分が信じてる」世界に人間を産み落とすことは有罪ってラブフェアリーも言ってた
 私だってこの世クソだなって思うし、そんなところで産んだり生まれたりしてるのやべえなって思うよ。けどじゃあ私も「生殖なんてやめちまえ」って言うかというと、言わない。言ったら生まれてきた存在を否定してしまうことになるし、よりマシな世界の到来を遠ざけることになる、と考えているから。

 私の信じるところとして、生まれてきた子ども(誰もが誰かの子どもなので、あなたのことでもあります)には嘘でもようこそって言えよ、というものがあります。ここは生まれてくるに値する世界だよ、と騙してでも生きててもらう。たとえいつかその子が大きくなって、この世はクソだって気づいてしまう日が来るとしてもね。
 「君のことは生まれちゃったから例外だけど、本当は人間はみな生まれない方がいいよね、ああ君の話じゃないんだけど」なんて言ったりしたら、絶対本人は自分の生まれてきたことも間違いだったの?って方に思うじゃん。それはようこその逆だ。
 誤解を生まないように言っておくと、アンチナタリズムはすでに生まれてしまったものに対してどうこう言ったりする思想ではない。だから、アンチナタリストも生まれてきた子どもに対してようこそと言うことも、ここは生まれてくるに値する世界だよと伝えることもあるのかもしれない。
 けれどもその根本となる主張は「生殖をやめろ、ここは新たな生を迎えるに値する世界ではない」なので、どれだけアンチナタリスト本人が人によくしていたとしても、主張の部分で「人が生まれるのが間違いだというなら、君が生まれたことも間違いかもしれないし、君を生んだ親もまた間違っていた」というメッセージを伝えてしまうこともあるのではと思う。世界を肯定してもらいたいのなら、そこで態度がぶれてしまうように見えるのは良くない。嘘をやるなら最後まで嘘を吐き通してほしい。

 前の話にも載せたけど、みんなで嘘をついていればそれは「ある」ことになるんだよね。
 サンタさんをやる人が居れば、少なくともそこにはサンタさんは存在する。いつかサンタさんがものをくれる妖精ではなく自分の身近な人だって気づく日が来たとしても、そのあとその子自身が次のサンタさんをやるかもしれない。
 子ども相手にだけでも「ここは生きるに値する世界だよ」って言ってけば、本当にそうなるかもしれないよね。「まだまだ不具合だらけなんだけど、もしかしたらそれを直して暇つぶしをすることもできるかもしれないね」まで言えるともっといい。

 じゃあお前は苦しいとわかってる生に命を放り込むことに反対しないのか!と言われると、まあその通りですと答えるしかない。だって生命として生まれてくる時点で苦しみをゼロにするのは無理だから。
 苦痛を感じることができる感覚器官と生きていたいという生命の傾向が揃ってしまったので、生命はどうしても苦痛を感じてしまう。生命って大量に生まれるけれど、どのひとつとして死は避けられないからね。(クラゲの一種は例外なんだっけ?)
 苦痛は確かにヤバいんだけど、苦痛そのものに生きることや生まれること全てを否定する力があるとはどうも信じられない。生の最後で苦痛と快楽の収支を計算して、快楽が勝ってたら人生成功です、っていう話でもないからね。だから苦痛があるからと言って生まれてしまってかわいそうだなんてことも言わない。

 生まれる前の生のこと(そんなものがあるとすれば)を考えたって、私に新しい誕生を止める権利はない。望んで生まれてくるかイヤイヤ生まれさせられるのかなんて誰にもわからないからね。
 誰かが望んでひとりやふたりやたくさんで子どもを産むと決めるのなら(たとえ打算によるものだとしても、この世がどうあがいてもクソでしか無いのだとしても)、この世界の景色を見せたいというのなら、そっちの意思も尊重されて良いし、むしろそっちの意思しかわからない。
 だからといって産む気もない人に子どもを産めって迫る気はないし、迫られて困ってる人を救うのはアンチナタリズムではなく、意思に反することを要求する社会や性差別をどうにかする方なんじゃないかなあ。

 けれども、アンチナタリズムが誰かを救うことももしかしたらあるのかもしれない。
 「生まれてきて良かったって言え!」みたいな圧に苦しんでる人に「君には生まれてこない権利もあったんだよ」と言うことは何らかの安らぎになるのかも。それでも、それは私の救いにはならないけどね。だって過ぎたこと言ってもどうしようもない。
 その人にはその言葉にしかすがれない瞬間があるのかもしれないかもしれないけど、私は意地悪なので「君が生まれてきたのは間違いではないよ、残念ながら」って言ってしまうだろうなあ。生が救いではないのと同様に、死も救いではないのだから。残念ながらね。

 次の山城さんの「祈りがち」が出て、怪獣歌会のアドベントカレンダー2018は終了です。
 毎晩楽しみにしてくれてたみんなありがとう。
 それでは、ハッピーホリデーズ!

この文は怪獣歌会アドベントカレンダー24日目の記事です。

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