つまらない人間を愛しているか
怪獣歌会では、2018年の12月1日から25日まで、毎日noteを更新するという無謀な挑戦に乗り出しています。
実は昨日から2018年の文フリ東京で頒布したQuaijiu Free 1のweb再録が始まっているのですが、それだけでは25日守りきれないので、怪獣歌会のメンバー内で交換書簡を回すことにしました。
どんな話になるのかは誰にもわかりません。楽しみだね。
今日から怪獣歌会は交換書簡をしていくらしいです。アドベントカレンダーですね。みなさん宗派は大丈夫ですか?
交換書簡の1番目を担当する山城周です。
よく「人間が好きですよね」と言われます。同じくらい「人間が嫌いですよね」も言われるんですけど、人間が嫌いだったらそんな嫌いな対象が溢れかえった空間に耐えきれず私はグッバイこの世ムーヴをすると思うよ。「人間が嫌い」に見えてしまう理由のひとつに、喋り方が攻撃的で喧嘩腰だからというのがあると思う。半分くらいは自覚できてます。喧嘩は喧嘩で好きだけど、それならもっと喧嘩のスタイルでやります。うーん喧嘩のスタイルじゃないときは穏やか対話形式でやっているつもりですよ。人間が好きだからね。
なぜ人間が好きなのかという説明は難しい。なぜ難しいかというと、私の生育について多少話さないといけないから。ここは短歌の同人なので、私の生まれ育ちというものが記録に残って、私の歌への読解に影響したら嫌だなって気持ちが、今のところ強い(短歌の雑誌なりによく出身地と生年が記されていますが悪習だと思う)。
私は虐待家庭に育ったので、自他の区別とか、倫理観の成長やらは不充分にできあがった(できあがった?)。そうすると、家庭の外で人間関係を作るようになっても、よく他人から依存されていたし、していた。誰かに依存したい!という欲望を満たしてあげることは、家庭内でゴミとして扱われていた私にとても重要な役割をくれる、すごい経験だった。依存や暴力は、愛からは遠い遠いところにあるのに、人間同士を近くさせる大きな力、という点で似てしまってもいる。だから私は依存や暴力に慣れきっていた。そしてご多分に漏れず私は疲れたしぶっ壊れた。何度も。あーなんかこれを繰り返していてもだめなのかもしれないなー、ていうか私ゴミじゃないのかも、って知りはじめる。このあたりで前後してフェミニズムに救われます。そして人間の可能性を愛するようになる。非常に短く簡単で間違いだらけかもしれない自分史!
怪獣歌会のある怪獣が「山城周はつまらない人間も愛せそう」みたいなことを話してたんだけど、簡潔に言って、つまらない人間はいない。だって人間は1人1人違うから。私がなぜ人間を好きかと言えば多様だから。私は1人として同じ人間がいないこの世界に感動しているし、知り合えた人間のことを基本的にめちゃくちゃ知りたいなと思って接している。めちゃくちゃ質問もするし、喧嘩もする。確かに、質問とか喧嘩は疲れるので、この人相手だと疲れそうだなーと判断したら予め避けることもある。でもそれは私の体力が有限だから。もし、もし、もし無限だったら!すべての人間と話しまくれるのに!!!!
だって!人間は本当に面白いんだよ。人を分類する言葉は多くあるけど、その分類だけで語り尽くせる個人なんていない。話していて、その人の、その人だけの語りが出てくる瞬間は最高だ。人間は全体としても多様だし、1人1人もとても複雑だ。その複雑さ、矛盾した言動、もっと見せてくれ。
この考えのせいか、怪獣から「シリアルキラー系博愛主義者」とも呼ばれた。ちなみにシリアルキラーも好きです。スナッフフィルムは観ません。怖いし、人間が人間を殺すことは良くないことだと思うし、行為にはあまり興味もない。ただシリアルキラーが、被害者を選ぶ心理、それが面白い。
私がこの世で一番好きな映画『羊たちの沈黙』がありますが、ハンニバル・レクター博士は確実に信念をもってやっている。最高に魅力的だ。ちなみにモデルの1人であるシリアルキラー、ヘンリー・リー・ルーカスのルポルタージュもあるけど、そんなに面白い本じゃないです。凡庸な信念とストーリーが描かれている。これはルーカスの問題っていうか、本の問題。
ハンド・オブ・デス (コールドブラッドディクショナリィシリーズ)
次回は「飛び方を教えてくれる始祖鳥」と私を紹介してくれた吉田瑞季が書簡を書きます。私からしたら「論理的サイコパスラブ実践主義者」みたいな人です。吉田さんに聞きたいんですけど、シリアルキラーって倫理的にはめっちゃだめなのにめっちゃ魅力的じゃないですか。私は人間が弱く愚かな点も愛していて、シリアルキラーなんてそれだなって思ってるんです。どうですか?シリアルキラー。
この記事は怪獣歌会アドベントカレンダー企画2日目の記事です
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