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見ること、書くこと、その自由

 私は志賀直哉が好きだ。
 
 本を読むときに勝手に強化月間を設けることがある。昨年の夏は白樺派強化月間だった。武者小路、有島、里見らの作品を読み進む中で、気に入ったのが志賀だ。本当に面白いと思う。何がそんなに面白いのか、今回の記事で少しでも伝われば嬉しい。

 まずは作品から引用する。

『Kさんは勢よく燃え残りの薪を湖水へ遠く抛った。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んでいった。それが、水に映って、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んでいく。上と下と、同じ弧を描いて水面で結びつくと同時に、ジュッと消えてしまう。そしてあたりが暗くなる。』志賀直哉「焚火」

 すごいよ。
 試しにこの場面を自分なりの言葉で書き直してみてほしい。
 私には無理だ。一度志賀の文章を読んでしまうと、ほかの表現が思い浮かばない。この情景を叙述するのにはこの言葉しかない、と強く信じさせてくれる(たとえ実際にそんなことはないとしても)。他の作家と同じ活字を使っているのにもかかわらず、志賀の文章はそこだけ活字が立っている、と言われることがある。簡勁で、力がある。

 感情があまり動かないというのも、もう一つの特徴だ。それも、あえて気持ちを押し殺しているのではなく、本当に何も感じていない風なのが面白い。教科書にも掲載されている「城の崎にて」の冒頭は『山の手線の電車に跳飛ばされて怪我をした』だが、内容の重大さの割に表現があまりに淡々としていて、逆に笑えてくる。

 志賀自身は生き物を書くのが好きだと述べているが、特に生き物が死ぬところを描くのが非常にうまい。読者は死の衝撃によって多少なりとも動揺するが、作者の観察眼は曇ることがないので、相対的に描写の精緻さが際立って見えるのだと思う。「城の崎にて」を名作にしているのも、蜂、ねずみ、いもりの三者三様の死の場面だ。「和解」ではその同じ眼差しによって自身の娘の死が克明に描かれている。観照の正確さは怖いくらいだ。

 以下は「濠端の住まい」という短編から。

『殺された母鶏の肉は大工夫婦のその日の菜になった。そしてそのぶつぎりにされた頬の赤い首は、それだけで庭へほうり出されてあった。半開きの眼をし、軽く嘴を開いた首は恨みを呑んでいるように見えた。雛等は恐る恐るそれに集るが、それを自分達の母鶏の首と思っているようには見えなかった。ある雛は断り口の柘榴のように開いた肉を啄んだ。首は啄まれる度、砂の上で向きを変えた。』志賀直哉「濠端の住まい」

 途中まではまあわかるのだけれど、『首は啄まれる度、砂の上で向きを変えた。』は完全に変だ。出てくるのが殺された母鶏とその雛ということで『恨みを呑んでいるように見えた』と、志賀にしては感傷的な一文が前半に挿入されている。が、志賀はその間も物体としての首をめちゃめちゃよく見ているのだ。だから直後に首の向きとかいうやばい描写に平然と移行できる。
 仮に全く同じものを見たとしても、こうは普通書かない。というか書けない。でも、書かれてみると本当にそうだと思う。私もその首の動くのを見たことがあるような気さえする。不思議だ。

 上記二つの引用からも窺えるように、志賀は目がいい。見たものを書く。見たものを書くということは簡単なように聞こえるが、実のところ非常に難しい。まず、見て、それから、書く。それだけのことなんだけど。

 どんなに頑張ってものを見ても、もの自体にはたどり着けず、限りなく近づくことしかできないという気がする。同じように、どんなに頑張ってものを書いても、書きたいこと自体を伝えることはできず、限りなく近づくことしかできない。そこには必ずロスが生じることになる。
 見るのも書くのもうまいと、伝達時のロスが少なくなる。つまり、認識と表現の距離がぐっと近づく。

 小林秀雄は次のように述べている。

『自然というものは、いつも見えている様だが、実はその前に幕が下りているので、それを素早く開けて、そこに見えたもの、山でも鳥でも懐中時計でもいいが、そこに在るのがはっきり見えた時、それを掴んでくるのが詩だ。』小林秀雄「志賀直哉論」

 この意味で志賀の作品は詩であると言っていいかもしれない。思えば、”見たものを書く”ということも、俳句や短歌において写生と呼んでいるやり方に本質的には等しい。

 志賀の文章には速度がある。自然は、冷え冷えのまま掴み取ってきても、次の瞬間にはもうぬるくなってしまう。人間の手はあたたかいからだ。具体的には、見えたものが逃げて行ってしまったり、見えていないことまでいろいろと書きたくなってしまったりする。速度のある文章は冷え冷えのものをそのまま読む者に届ける。原稿用紙に定着した文字は、自然の見せる一瞬のきらめきを永遠のものにする。

 怪獣アドベントカレンダーでは、物語についての話も出た。
 志賀の小説には物語がほとんどないか、あっても取り立てて面白いものではない。多くの作品はまるで日記のように自然に始まり、唐突に終わる。
 代表作とされる「小僧の神様」にしたところで、つまるところ、小僧が寿司を奢られるだけの話である。こう書くと、いかにもつまらなさそうだ。志賀の作品を人に勧めにくい理由が実はここにある。どんな話?と聞かれてもうまく答えられない。内容を要約した途端に、作品のよさが失われてしまうのだ。私自身、かつてはもどかしく思うこともあった。

 だが、それこそが強みなのだと今ならわかる。文章の速度に物語がついてこられないということだから。よく見てよく書くことこそが、物語の吸引力から逃れる確かな道の一つだから。

 私は志賀直哉が好きだ。ものを見ること、書くこと、その自由が好きだ。

 明日の担当は鳥居さん。鳥居さんも、自由にやってください。

参考文献:
小僧の神様・城の崎にて 志賀直哉 新潮文庫
作家の顔 小林秀雄 新潮文庫
この文は怪獣歌会アドベントカレンダー23日目の記事です。

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