なぜ私は人間のフリをするのか
鳥居です。みなさん、人間のフリできてますか?
人間のフリとくい?
どうして我々(読者を人間と想定しています)は生きてるだけで十分人間なのに、私は人間のフリをするなんて言いかたをするんでしょう?
なぜって、生きてるだけじゃあんまり人間じゃないからなんですね。ヒトって。
これは自分用の理論でどっかで聞いたり見たりしたことのパッチワークなので、あんまり真に受けないでほしいんだけどさ。
ビオスとゾーエーって言葉があるんですよ。両方ともギリシャ語で生を意味してるんだけど、使い分けがあってね。ビオスが社会的生でゾーエーが動物的生。アメーバにはビオス(社会的生活)はない(たぶん)けどゾーエー(動物的生)はある。ヒトは生きてるだけだとゾーエーなんだけど、人の間に入って人間のフリをするとビオスになる。(アガンベンとフーコー齧っただけのざっくり解釈を許してほしい。ここでは哲学をやりたいのではなく哲学者が分節してくれた言葉で困りごとをほどきたいんだ)
昨日の斉藤が言ってたように、病気か何かで苦しんでる時ってはたから見ると物語でビオスかもしれないんだけど、本人的には苦しいだけなんだよね。苦しんでいる人間はゾーエーをやるのに精一杯で、ビオスをやる余裕なんてない。今まさに痛みに呻いている人に向かって人前なんだからしゃんと立って!なんて言えないし言わない(よね?)
人間のふりをする、とは人前で社会的にふるまうってことなんですよ。本当はゾーエーであるヒトがビオスをやる。あいさつとかする、突然人を殴らない、おなかがすいても人のものを奪わない。秩序側のふるまいをする。
逆に祭りの狂乱だったり、ものすごく苦しかったりして人間のふりをやめちゃった人を見ると人はびびります。ゾーエーむき出しの人間は怖い。人間サイズの話が通じない生き物は襲いかかって来たときヤバイってだけでなく、人間のフリをやめた人やできない人が存在しているということ自体、「ヒトが人間をやってるの、嘘だよね? 『ほんとう』はこっちなんじゃない?」とヤバい問題提起をされているような気になってしまう。(ここで注意しておくと、人間のフリをしてないからと言って、相手を人間扱いしなくていいということにはなりません)
脱線。
でもクソみたいな秩序とか決まりとかあるじゃん。
人間のフリをするというのが秩序に従うってことなら、「社会を変えよう」とか「あれこれが問題だ」と騒ぐことは人間のフリをやめているの? 例えば「宴会で女だからってサラダを取り分けさせられたりするのを批判する」みたいなのって、秩序を撹乱してることにならない? という疑問が出てくる。
私はアレはビオス側に立って相手のビオスを批判している、と解釈しています。だから批判側も人間のフリをしながら、批判される側とは別の人間のフリがあるんだぜと、「人間」がお前の秩序をクソだって言っている。あくまでビオスがそう言ってるんだ。お前の秩序に従わなくても我々は人間なんだ、ってね。
そう考えると論戦で感情的になったら「はい論破」みたいな顔される理由も説明できて、なぜならバトルはあくまでビオス同士で行われるものだとされているので、先に人間のふりをやめた方が負けだとみなされる。(これはクソ秩序の注釈であり、この事態を支持しているわけではありません)。我を忘れるの「我」ってビオスの方なんですね。それがわかってて人のビオスを追い詰める奴らが居るのでこの世はヤバい。
本題。
人間のフリをしてビオスをやるのがフリで嘘だから駄目というわけでもない。
人前でヘラヘラ笑う、労働者のフリをしてお金を稼ぐ。稼いだお金で生活をやる。文学のことも考える。それで良くない?
それともその生活の中で本当の自分が押し込められた内側で軋みを上げていたりする?
いつか解放される本当の自分ってのも嘘で、存在しないものを掲げて人を騙そうとする奴らに惑わされてはいけない。インドのどこを探しても本当の君は居ないし、けちくさい自己啓発セミナーに救いはない。
もし本当の自分はこんなではない、と言うことでなにか救われた気がするというのなら、多分それはいまの自分だと都合が悪いからなんだよね。
ほんとはやりたくないことをしんどいな〜って言いながらやってるそのしんどいの部分も自分なら、朝起きられなかったときに寝過ごしてスヤスヤしてた時間も自分。いつか小説を書きたいとか思いながらメモ帳を開きもしなかった時間は小説が書ける本当の自分が抑えつけられていたのではなく、ただ単にやろうと思いながら時間が過ぎてっただけだ。
逃れられなくてヤバいな! けどこれはよい知らせでもある。
本当の自分とか無いとしたら、今やってる「これ」が自分自身、ってことになるからね。
嘘で人間のフリをしているとしても、人間のフリができてればそれは人間ってことになる。
人間は本当は残酷な生き物です。(知ってる知ってる!)でもみんな嘘をついて残酷なんかじゃないフリをします。なんで? 大人はみんな嘘つきだから? ……その通り。人間はことばやら儀礼やら貨幣やらあらゆるものを駆使して社会を支えています。人間は助け合えるし人権もある。誰もが人権があるフリしてたら人権はもうそこにあるんだよ。人の顔が書いてある紙切れに交換価値があるフリをみんなでしてたら、そこにはもう価値があるってのと同じ。嘘をつき通し世界を支えることが人間のフリだ。もう嘘が良いとか悪いとかの話じゃない。
じゃあ何ができるって、よりマシな嘘で世界を支え、よりマシな人間のフリをすることができるってことだ。人間が変わることができる生き物なのだとしたら、それはきっとこの嘘の力が大きい。
だから、「人間性とかきれいごとじゃん」とか、「真に平等な世界なんて嘘じゃん」とか言われたって、「そんなことわかってて言ってるし君が突然殴られないのも世界が嘘に守られてるおかげなんだよなあ」で終わりなんだよね。
だからまあ私はフリだってわかっていながら人間のフリをし続けるよ。人間のこと好きだからね。
今週土曜にはやましろさんの嘘が嫌いってエッセイが出るんだけど、やましろさん的にはここで言ってるヒトが人間のフリをするという嘘についてどう思うんだろう。信用を作り出す嘘もあれば、信用を裏切る嘘もあるから、そこは別物としてとらえるんだろうか。それとも嘘で世界が支えられてるみたいな話自体が嘘だと思うかも。
もうひとつ、やましろさんは人間とわかりあうのを(基本的には)諦めない人だと私は認識しているんですが、人間とわかりあえたとき、どんなものが見えますか?
この文章は怪獣歌会アドベントカレンダー18日目の記事です
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