好意の銃弾
拝啓 ラブフェアリー様
ラブフェアリー様にご相談したい悩み事がふたつあります。それは、
・顔がいい
・もてる
ということです。あっ、この話、人間に知られたら人間社会を石もて追われることになるので、くれぐれも内密にお願いしますね。
これは、上記のふたつに、
・ASD傾向がある
・アロマンティックアセクシャルである
というふたつを兼ね備えるとどうなるのか、という話でもあります。
顔がいい、もてるって何なのかって話ですよね。それがわたしにもわからないんですよ。うーん、ほんとに。
物心ついたときから(というか生まれたときからかな……)、かわいい、きれい、美しい、美人、美少女、美少年、絵になる、フランス人形、姫、妖精、天使、女神etc.といった言葉を浴びて育ちました。
それから、自分のことかわいいと思ってるんでしょ、自分のことかわいいと思っててうざい、ちょっとちやほやされてるからって何してもいいと思ってるんだろ、おまえが自分のことかわいくないと言うとか嫌味かよetc.
悪口のレパートリーでさえおおむね「顔がいい」に集約されるくらい顔がいいのか、わたしは。なんかすごそう。
ところがわたしには人の顔の美醜がわからないんですね。
いや、わかると思ってました、かつては。みんなが美人だと言う人のことをわー美人だなーうらやましいーと言っていました。
だけど、「誰かが美人だと言う」以前に人のことを美人だと思ったことがない、ということにあるとき気付いてしまったのです。あ、わたし自身は人の顔見ても何とも思わないわ。人に初めて会ったときに相手の顔がきれいかどうかなんて思い浮かばない。というか人の顔あんまり覚えてないし、何なら見てもないのかもしれない。
だからわたしは、わたしがすごく目立つところに掲げているらしい表紙のようなものを、自分で解読することができない(でも表紙がなくなったって本は本だ)。
それで何が困るかというと、「もてる」んですね。もてるって何だろう。ラブフェアリー様、ご存じでしたら教えてください。
とりあえず、他者からの好意[とは?]がばんばん飛んでくる、他者がどんどん距離を詰めてくる、その好意に基づいたなんらかの要求(好意の返報及び排他的契約関係及び性的行動[とは?]、のセットが主流みたいですね)を突きつけてくる、みたいな状況のことだとしておきましょう。
もてるって言う場合にはその頻度が平均より高いことを示唆するようなんですが、平均のことはわかりません。みんな[とは?]は好意が実弾のように飛んでくるなかを華麗にひらひら避けて生きていて、わたしだけが弾に当たって瀕死になっているのかも。
それで、瀕死になりつつそういったことについて相談すると、かわいいから仕方ないよ、もててうらやましい、相手の気持ちわかるよ、相手がかわいそうetc.といった反応が返ってきたんですね。
そっか、かわいいともてて、もてるのはいいことで、つらくても仕方なくて、相手の方がかわいそうで、わたしの方が悪いのか。真面目に言ってる?
まずかわいいともてるというところからしてわからない。かわいいというのもあんまりわからないし、恋愛的に好きというのもわからないし、両者の関連性はなおさらわからない。自分じゃない誰かの顔が整っている[とは?]と自分にとって嬉しいことってあります? 自分の顔が整っていて嬉しいことがあるかも謎だけど、顔の整った誰かと特別に関係を縮めて何かいいことがあるんですか?
表紙がどんなにきれいな本でも、つまらなかったら読まないでしょう?
それでね、わたしは子供のとき、中学生くらいまでかな、よくいじめに遭ってました。そのことはたしかに楽じゃなかったのですが、わたしは同級生たちとつるむより一人で本を読んでいる方がはるかに好きだし、好きなように生きるために払う代償としてはこれくらいしょうがないかくらいの気持ちもありました(※これはあくまでも当時のわたしの感想であって、いじめは決して肯定されていいものではないということを付け加えておきます)。それよりもわたしにとっては、大学に入ってからの「もて」、というかセクシュアルハラスメントやストーキングや粘着や暴力やモラルハラスメントや中傷のほうがはるかに苦しかったんですよ。大雑把に要約すると、子供の頃は一方的に嫌われてばかりで、十代の終わり頃からは一方的に好かれることが激増して、わたしとしては嫌われてた方が楽だったなあと思っていました。
でもそれは正確ではないことに最近気付いてしまいました。わたしは嫌われていたからいじめられていたのではなくて、子供の頃からもてていた=いじめられていたのです。
なぜいじめたのかと聞かれて「遊びに誘っても断られたから」「ほんとうは仲良くなりたかった」と答えた同級生たちや、転校初日のわたしを見るなり「かわいい」の大合唱だったかと思うと、あっという間に全員でわたしを無視することに決めた同級生たち、わたしと握手をして「かわいい」と言うのを罰ゲームにしていた同級生たち、まわりに人がいないときはやたら親切だったいじめっこ、わたしにすごく優しかったけど、のちに「あなたのことが羨ましくていじめていたことがある」と告白してくれた(いじめられていたことにさえわたしは気付いてあげられなかった)友達、わたしをいじめていたのに、そのことを忘れた(忘れることにした?)ように仲良しになってしまい、しかし発作的に暴力や暴言や無視を繰り返した友達、みんな、わたしのことが好きだった、のです。同時にすごく嫌いだったのです。
好意というのはしばしば相手を思い通りにしたいという欲望であり、思い通りにならない相手への憎悪であり、暴力です。
内向的で共感性が低く他者への関心も薄かったわたしは、かれらがわたしと仲良くなりたいと思っていることに一切気付かず、あるいは気付いても気にも留めず、無視されたと思ったかれらが憎悪に転じて嫌がらせやいじめを始めても、やっぱりその好意には一切気付かなかったのです。
成長してからは、たぶん、気付かないようにしてた面もあります。自分の外見がよいことに気付いてはいけないとか、好意はすべてよいものだから喜んで受け取るべきだといった規範が世の中には存在しますよね。わたしなりに社会規範に沿おうとして、自分の顔がいいとか、自分が好意を向けられているといった可能性を一生懸命排除していたのでした。
それに、基本的に人を嫌いになることがなく、嫌いになりたくないとも思っていたから。自分もかれらの気に入らないようなことをしたんだろう(知らないけど)くらいの感じでいたかった。何の非もない被害者なんて、あまりにも居心地の悪い立場である気がして。
けれど、そうした好意が今度は「もて」として表出するようになると、さすがにそれが好意の問題である(そして憎悪の問題である)ことに気付かざるを得ませんでした。それでもなるべく、もてるとか顔がいいという要素からは目を逸らそうとしてきました。わたしは美人すぎなくて大人しそうで舐められやすくて友達も少ないからターゲットになってるんだよね。ね? でもそういう考え方は、「他者からぞんざいに扱われても仕方がない属性がある」という思考に直結します。どんな属性の人間でも、いじめられたりハラスメントを受けたりしていいわけはない。それが「よいもの」とされている属性であっても。
そういうわけで、鳥居さんじゃないけど「都合が悪くて今まで認めてこなかった自分」と向き合ってみると、「顔のいいモテ系AロマAセクアスペルガール」ということになりました。うわあ、人間関係が前途多難そう。
上に書いた通り、いじめられていたことはそこまで大したダメージじゃないと思っていたのですが、人生で一番つらい出来事であった「もて」(というか性暴力やストーキング)と本質的に同じことが子供の頃からずっと起きていたのだ、と気付いたら、結構つらかった、な。
社会性なんて身に着けないまま、自分に向けられる好意に無頓着に生きられたらその方が楽だったろうな。
でもどうなんだろ、やっぱり人間ってそんなに人の顔なんて見てなくて、自分の身に起きる事件の背景にこんなに「ルックス」を見ようとするわたしこそルッキストなのでは? という疑念が拭えません。やだなあ、やっぱり顔のことなんか考えたくない。身体なんか嫌い。精神だけの存在になりたい。
ラブフェアリー様からのご質問は、「吉田は本当にルッキストじゃないラブ?」ということでしたね。
えっと、わたし、吉田さんの「顔がいい人が好き」って公言してるところ、好きなんですよ。あとわたしやわたしの顔に興味なさそうなところね。
顔がいいというのは100%主観的な話で、それ自体はいいことでも悪いことでもないと思います。足が速いとか、ルービックキューブが上手いとかと同様、ひとつの長所として活かしてもいいし別に活かさなくてもいい要素のひとつに過ぎません。
でもこの社会では、外見が不当に重視されていて、外見が関係ないはずの領域でも外見への評価がしゃしゃり出てきてしまいます。能力だけを評価すべき場で、容姿が整っていることが有利に働いてしまうなんて話は掃いて捨てるほどあります。
同時に、この社会では外見が不当に軽視されてもいて、外見を評価するのは内面を評価するより表層的、といった考えが根強い。だから、外見への嗜好は性格や能力への評価の皮をかぶります。「美人は性格がいい」、いや「美人は性格が悪い」なんて話はつねに囂しいし(容姿と性格の組み合わせはそれこそ各人各様ですし、容姿が性格形成に大きく影響した人もいればしなかった人もいるでしょうに)、「性格が顔に出る」みたいな言説があったり、自分の外見を高く評価する人は「性格が悪い」ということになったり。
外見「を」評価するのは悪いことじゃないと思うんです。外見「で」評価するのが悪いだけで。
外見は生まれつきのもので変えられないからそれを評価するのはよくない、という考え方もありますが、性格や能力も悲しいことに(わたしはそれを悲しいと感じます)生まれつきの要因や生育環境で決定されてしまう部分が大きいですからね……。
だから、「自分は外見なんかじゃなくて性格を見ている」といったごまかしをせずに、また「誰だってほんとうは外見で判断しているんだ、人は顔が九割!」といった決めつけをせずに、「自分は」「顔がいい人が好き」であることと向き合っている吉田さんはフェアだなと思います。
顔が好きな人はそのことを恥じないでほしい。同時に、顔なんかどうでもいいと思ってる人は無理に顔に興味を持とうとしないでほしい(会話の潤滑油くらいの気持ちで「おっ美人ですねー」とか言い出す人って、ほんとは顔なんか興味ないんじゃないかな、とわたしは思っています)。その方が、結果的に、顔なんかただの趣味嗜好の範疇という平和な世の中が到来すると思うから。
お気付きでしょうが、わたしの前回の手紙とは矛盾するところが随所にありますね。そう、わたしは前回、ぬいぐるみの「外見」が好きになって、「外見で選別するなんてよくない」と逡巡した話をしました。
ぬいぐるみや人形に対しては、かわいい、きれい、と思うんですよね。でも特に人形なんて文字通り人間を模しているのだから、わたしが美しいと思う人間の身体のかたちもあるはずですね。ぬいぐるみや人形に対する思いを敷衍していったら、わたしのことをきれいだと思う人の気持ちもいつかわかってあげられるようになるんでしょうか(でも無理にわかろうとするのもよくない気がします)。
「外見で選別するのはよくない」という気持ちについては……うーん。
正直言うと、わたしは「顔が好き」と言われたら高確率で「この人怖い……」と引くし(いや、「顔が好きだから仲良くなりたい」はきついけど「顔が好き。以上」はふーんって感じな気もする)、そもそも「好き」と言われたら引くと思うんですよね(いや、「好きだから付き合ってほしい」はなんで!?って思うけど「好き。以上」だったらわたしも(わたしのことが)好きですよってだけかなあ)。
友人(になれるかもしれない人)だと思っていた人から「初めて会ったときからかわいいと思っていた、恋愛的に好き」などの告白を受けると「はあ? じゃあ友達面なんかしないで最初っからそう言ってわたしの人生からログアウトしてくれればよかったじゃん」って思いますもん。
はじめに書いた通り、わたしは自分について言われる褒め言葉も悪口も外見にまつわるものが圧倒的に多くて、しかし自分ではどうしても外見に強い関心を持つことができないので、外見のことばかり言われるとうんざりしてしまうんです。わたしには他にもっといいところがあるでしょ、と思う。
だから、一般論としては誰が誰をどんな基準で愛そうが勝手だ、ということになるけど、個人的には「(その愛の対象がわたしでさえなければね)」、と付け加えたい気持ちです。
そういうわけで最近の関心事は、人は自分に向けられる愛や関心からどうやって逃げて、あるいはどうやってそれらと折り合いをつけて生きているのかということです。
この疑問に答えてくれるのは、ラブフェアリー様でしょうか、斉藤さん(わたしから見ると、他者の評価にまるで動じないかっこいい人です)でしょうか、まるちゃんでしょうか。
一切は空なのかな、まるちゃん?
敬具
この記事は怪獣歌会アドベントカレンダー10日目の記事です。
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