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京都造形芸術大学セクハラ告発は芸術をわかっていない女性の「空気の読めない屁理屈」なのか?

 2019年2月27日、このようなニュースがツイッターのタイムラインを駆け抜けた。

「会田誠さんらの講義で苦痛受けた」女性受講生が「セクハラ」で京都造形大を提訴

“京都造形芸術大の東京キャンパスで公開講座を受けたところ、ゲスト講師から環境型セクハラにあって、精神的苦痛を受けたとして、受講していた女性が、大学を運営する学校法人「瓜生山学園」を相手取り、慰謝料など計約333万円の支払いをもとめる訴訟を東京地裁に起こした。提訴は2月22日付。”

 ツイッターでは、「ヌードを通して、芸術作品の見方を身につける」というテーマの講義において「セクハラ被害」を訴えることは、あまりにナイーブで言いがかりのようなものだというような意見も少なくない。「デッサンに来たモデルをズリネタにした」という発言の酷さはほとんどの人が認めざるを得ないようだが、会田誠の絵画作品や鷹野隆大の写真作品を授業中に掲出して受講生に見せることについては、「セクハラには当たらない」と考えている人が多いようだ。

 「ヌードや性表現を扱う授業ではどんな作品を見せられてもハラスメントではない」「古典芸術のお綺麗なヌードしか見たことのない人にとっては会田誠のような現代美術家の表現はどぎつ過ぎてセクハラになってしまう」「何でもかんでもセクハラになるのでは、教育活動や芸術活動は成立しない」

 これらの声は女性や芸術関係者からも発せられているようだ。果たして、このセクハラ告発は芸術をわかっていない女性から発せられた、「空気の読めない屁理屈」なのか?

「ヌード作品」講座ではヌードはセクハラではないのか

 このニュースに対して多くの人が疑問に思うのは、「ヌードをテーマにした講座なのになぜ裸体表現をセクハラだと思うのか?」ということだろう。しかし、ニュース記事を読んでいくと、当事者が感じた不快感や違和感は、単に「裸体表現」や「性的な表現」の絵画や写真に向けられているのではないように感じる。

 例えば、

講義は、涙を流した少女がレイプされた絵や、全裸の女性が排泄している絵、四肢を切断された女性が犬の格好をしている絵などをスクリーンに映し出すという内容で、会田さんはさらに「デッサンに来たモデルをズリネタにした」と笑いをとるなど、下ネタを話しつづけていたという

 ここに挙げられている絵画作品は、会田誠についてなにがしかの知識がある人であれば、「ああ、あれだな」とピンとくるものであるだろう。会田の作品、ことにヌードや性表現を扱う際には削ることはできないものだ。問題はやはり「ズリネタ」などの発言とそれらの作品が結びつくことであったのではないだろうか。
 おそらくこの講義で取り上げられた作品「犬」シリーズ、「人造食用少女美味ちゃん」シリーズ、「巨大フジ隊員VSキングギドラ」などの作品は、2012年に六本木の森美術館で開催された「天才でごめんなさい」展でも展示され、物議を醸していた。
 森美術館での展示は、これら裸体かつ性暴力的な表現を含む作品の展示室と他の展示室をカーテンで完全に区切り、18歳以下の立ち入りを禁じた上で入り口にも注意書きを掲示していた。※

会田誠展公式サイトにも以下のような注意書きがある。
「本展には、性的表現を含む刺激の強い作品が含まれています。いずれも現代社会の多様な側面を反映したものですが、このような傾向の作品を不快に感じる方は、入場に際して事前にご了承いただきますようお願い致します。なお、とくに刺激が強いと思われる作品は、18歳未満の方の入場をご遠慮いただいている特定のギャラリーに展示されています。」

 このような作品について、京都造形芸術大学での講義の参加者に事前に注意やアナウンスがあったのだろうか?
 「犬」や「美味ちゃん」や「巨大フジ隊員」は単なる「裸体画」ではない。明らかに女性を性的かつ暴力的な視線で描くと共に、女性蔑視の文化的文脈を受け継いでいる作品である。「見たくない」「辛くなる」という受講者が出ることも容易に予想できるのではないか。

 また、「ズリネタ」発言のような誰の目から見ても明らかなセクハラ行為について何も対応がとられていなかったのか、ということにも疑問が残る。
 正直言って会田誠は明らかにミソジニストであり、今までも女性蔑視や女性嫌悪的な発言、「少女が好き」のように未成年を性的に見るような発言などを行ってきた。
 有能な教員や専門家が授業のコーディネーターを勤めていたならば、「聞き手」としてゲスト講師の発言に「それはいけませんよ」と諌めたり、受講生のフォローを行うこともできたのではないかと思ってしまう。会田誠一人に好き勝手喋らせて、被害者が言うように「セクハラを訴えたあとも、大学側の対応が、教育者としてあるまじき姿だった」ならば、講義を企画した人間の技量や責任を疑わざるを得ない。

 被害者の主張を見ると、講義そのものへの不快感もさることながら、アーティストに依頼し受講生を集めるだけ集めておいて、コーディネーターや教育機関としての勤めを果たせていないように見える大学側への不信感がより苦痛に繋がったのではないかと思える。

鷹野隆大の男性ヌードをセクハラと呼んでよいのか

 一方で、私が被害者側の主張に完全に同意できるかと言うと、疑問に思う点もある。
 会田誠の後の回を担当した鷹野隆大は、以前愛知県美術館での展覧会において、男性器が写ったヌード写真を展示したとして県警に検挙をほのめかされ、作品に「カーテン」をかけることになったことで話題となった作家である。ミケランジェロの「最後の審判」の裸体に他の画家が「腰巻」を書き足した事件との類似から、「平成の腰巻事件」とも揶揄された。※

※3/1加筆
「平成の腰巻事件」はむしろ黒田清輝の「裸体婦人像」が1900年の白馬会展において警察の介入を受け、絵の下半分に「腰巻」をつけさせられた「腰巻事件」が念頭に置かれている表現である。
ちなみに鷹野は自らの作品につけた布を「腰巻」とは表現していない。警察の介入を受けながらも展示を続けたことがわかり、来場者にもこのことを考えてもらえる表現としてカーテンを採用した、と語っている。
http://www.ycassociates.co.jp/jp/information/aichi-takano/

 京都造形芸術大学の講義では、鷹野による「勃起した男性器が写っているヌード」作品が掲出されたという。この作品については、会田の作品や言動と同列に「セクハラ」と読んで良いのか、疑問が残る。

 従来の芸術作品では、多くの場合ヌードといえば女性裸婦像か、不自然に性器が小さく曖昧に描かれた男性ヌードである。おおっぴらに男性器が描写されたり写真にうつされたりするようになったのは近年になってからであろう。
 足を閉じて立っている時にはほぼ外から見えない女性器と違って、男性器は体の正面中央にどっかとぶら下がっており、描かないとか彫らないとか写さないと言うのはとても難しい。しかし、現代日本において「猥褻物陳列罪」は実質性器が見えているかどうかを基準に運用されているため、男性ヌードはなおさらに微妙な扱いを受けざるを得ない。
 「性器を描くこと」が法的なタブーだからと言って、体表面に確かにあるそれを排除して身体を表現することができるのだろうか? また、「男性器が勃起しているかどうか」が、ヌードがセクハラであるかどうかの分水嶺になりうるのだろうか?

 さらに、男性ヌードを描くことや、同性愛への偏見や嫌悪と言う問題も絡んでくる。
 鷹野はセクシュアリティをテーマにした作品を多く撮っており、愛知県美術館で問題となった作品も裸の男性二人が肩を組んで写っている作品であった。「同性愛」を示唆する表現に対するホモフォビックな不快感が「セクハラ」と言う言葉で表現され、性暴力表現と同列に語られてしまっているのだとしたら、そこには別の問題が潜んでいるのではないだろうか?

 実際に被害者と大学の間でどのようなやりとりがあったのかはわからないものの、鷹野の作品についての被害者側の主張はやはり被害者が大学側に抱いた不信感を反映しているように、私には思われた。
 つまり、会田の講義について不快感を大学側に伝えたにも関わらず、大学側の対応がなかったか不誠実なものであり、その後の鷹野の講義で扱われる作品についても注意喚起や説明がなかったことについて、被害者がより不信感を強めたのではないかと言うことだ。
 これはあくまでも推測であり、ハラスメントが起きてからニュースとして人々の目に触れるまでには、さまざまな要因が絡んでくるものであり、実際のところはわからない。

「芸術かつ暴力」「芸術かつポルノ」はありうる

 芸術の世界において、会田誠が特別に過激で新しい訳ではない。美術館に足を運べば、バルテュスやエゴン・シーレが描いた性器丸出しの絵画が展示され、人々がそれをまじまじと見つめている。大英博物館では日本よりもはるかに熱狂的に「春画」の展覧会が受け入れられたし、駅前や公園に当たり前のように裸体のブロンズ像が置かれている。
 私たちは芸術作品の枠に入れられた裸体やセクシュアルな表現を、当たり前のように視界に入れているが、時折ふとその違和感に気づいてしまう。

 バルテュスの、下着をあらわにした少女の絵が巨大なポスターとなって東京中に貼り出された時には、やはり物議を醸した。「『巨匠』の作品であれば公共の場に掲示しても構わない」「これは芸術であって性的搾取や抑圧ではない」そんな男性中心社会の驕りこそ、私たちが今克服しなければいけないものなのではないだろうか。
 「芸術であるから暴力ではない」「芸術であるからポルノではない」という考え方はナンセンスである。「芸術であり暴力である」「芸術でありポルノである」ケースなど、芸術史に記述されている範囲でもいくらでもあげることができる。「ヌードを通して、芸術作品の見方を身につける」という講義だったのなら、そのような視点をこそ大学側はもつべきではなかったか?

文:吉田瑞季

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