あわいのこと
ときどき、このうつつから一瞬だけ目を覚ましてしまったかのような、そんな瞬間が訪れた。わたしがなぜこの〈わたし〉の中に入っているのかわからなくなる瞬間だ。それは、頭で疑問に思うというのとは違っていて、自分がしゃぼんだまの被膜に包まれてまわりの世界から隔離されているような感覚を伴っていた。既視感に似ていると思う。歩いているとき、人と話しているとき、ふとしたときにやって来て、見た目はそっくりだけれどすべてが違う異世界に一瞬だけわたしを拉致し、永遠のような一瞬ののちに去ってしまうと、それが来たことは覚えていても、そのときの感じをふたたび呼び覚ますことも理解することもできない、そういうところが既視感に似ていると思う。
そう、理解することもできない。何を、なぜ、そんなに奇妙なことと感じたのか。さっきまで自分はこの小説世界を上から眺める透明な視点だったのに、いつの間にかひとりの登場人物の体の中に閉じ込められてしまった、そのことに気付いて愕然としていたみたいだとも言える。自分はこの容れ物の内側から外を覗くことしかできない、自分の眼を自分で見ることができない。決して。という衝撃であるように思う。なぜ、よりによってこの登場人物を視点人物に定めたのか(それも非常に厳格に、この人物だけを)という訝しさであるような気もする。
だけれど、一瞬だけわたしを襲ってはわたしの手をすり抜けていく透明な衝撃の波は、どうしても言葉にすることができないし、平常の世界に復してしまったわたしには、わたしを驚かせたのがこの世界の何だったのか、理解することができない。
そうした瞬間は、頻繁というほどではないにせよ時々わたしを訪れていたのだけど、もう長いこと来ていない。ドストエフスキーの『白痴』を読んだとき、主人公のムイシュキン公爵を癲癇が襲う直前の永遠に近い瞬間、あれがどこかしらで似通っているように思った。
わたしはいまでも、あの透明な孤独の瞬間を、わたしがわたしの囚人であることを突きつけられるあの異化の瞬間を待っているのだけど。
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歩いている。歩いている。歩いている。
ふとした瞬間に、どうしてまだこの〈いま〉なんだろうと思う。ずいぶんと長回しのショットを延々と見せられているみたいだ。この〈いま〉も、一瞬前の〈いま〉も、その一瞬前の〈いま〉も、ほとんど変わらないのだから、飛ばしてしまっていいのに。カットして目的地を映せばいいのに。
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よく立ち眩みがやって来る。立ち眩みは嫌いじゃない。見えているものが映像に過ぎないということを教えてくれる。映像が乱れて、やがて真っ暗になる。真っ暗な中を歩き続ける。やがて映像が戻って来る。
真夜中に階段を下っていたとき立ち眩みがやって来て、頭からさあっと血が引いていくのがわかった。自分はいま、なにかの水面の上に頭を出しつつあるところだという感じがした。普段は頭までどっぷりと浸かっている〈世界〉の水面上に顔を出してしまった。まよなかの階段というのはそういうことが起きるところだ。
一度だけ立ち眩みで気を失ったことがある。立ち眩みが来たらすぐにしゃがみなさいとほんとうは言われている。ふだんはあまり気にしないけど、そのときは立ち眩みがすぐには治まらなくて深まっていく一方だったので、手近にあったものにつかまった。開きかけた部屋のドアノブだった。気付くとわたしは部屋の中に倒れていて、ドアは内側に向かって開いていた。意識を取り戻して少しのあいだは、いまがいつで自分がどこにいるのかも思い出せなかった。気を失っていたのはほんの一瞬なのだろうけど、意識が途切れてほんとうの暗黒になるというのは不思議だった。
気を失っていたのはほんの一瞬なのだろうけど、その時間を測っていたものはだれもいない。そのあいだに永遠が過ぎて、世界が終わったのかもしれない。
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あるとき満員電車の中で気分が悪くなった。視界がちらちらしてきて、光の粒が見る間に増殖して、視界を埋めて、ひかりで前が見えなくなった。わたしはお腹が痛くて、冷汗をかいて、ずるずるとしゃがみ込みながら、ひかりで前が見えないという事態にほとんど感動を覚えていた。ひかりで前が見えないなんてはじめてのことだったから。
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偏頭痛は好きじゃない。あまりにも苦しいし、頭痛そのものより凶暴に突然襲ってくる閃輝暗点、あっという間に視界を喰い尽くしていくひかりの歯車は、あまりにもぎらぎらしていて吐き気がするばかりだ。でもそれは美しいのかも。水たまりに浮いた油の虹みたいにぎらぎらと美しいのかも。美しすぎて直視できないくらい美しいから、わたしは意識を手放して眠りに逃げるしかないのかもしれない。
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歩いている。歩いている。歩いている。
歩くのって機械的な動作だなとふと思う。歩こうと考えなくても脚は歩き続ける。止まろうと考えたら止まることができるのかな。でも本気で止まろうとは思っていないから止まらない。
歩きながらそういうことを考えつくことが何度かあって、あるときほんとうに止まってみる。止まってみるとほんとうに止まってしまう。わたしは道の真ん中で立ち尽くしている。
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ねむるのが苦手だから、金縛りにもよく遭う。金縛りのときは体が動かないから瞼も開かないけれど、頭はじぶんが目覚めていると思っているから整合性を取ろうとして勝手にいろんなものを見る。見ているつもりの幻覚を作り上げる。天井を見上げたり、部屋の中を見ていたりする。部屋の中にだれかが入って来て話しかけてきたりする。ときどきはとんでもない角度から天井を見ている。
目が開いたとき、自分がどの角度から何を見ているのかわからなくて混乱することがある。それは本棚だったり自分が頭を乗せている枕だったりする。目で見るものの世界は、瞼の内側で見る概念的な見取り図より込み入っている。
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夢の時間はたぶん、現実よりもたくさんのショットを使っている。夢の時間はすぱすぱ切れて繋ぎ合わされる。たぶん。
だから夢から現実に戻ろうとするとき、わたしは時間を長回しにしようとする。
あるとき怖い夢を見て、その夢の舞台は家の中だった。夢であることはわかっていて、わたしは自分のベッドに戻ったら夢から覚められるだろうと思った。だから一生懸命、夢の中を歩こうとする。現実と同じように一歩一歩を歩こうとする。現実と同じ、時間の連続性を保つことができたら、現実に戻れると思ったのだ。だけど一歩一歩、一瞬一瞬を余すところなく意識することはできないし、意識されない時間は夢の中では、存在しないのだ。
瞬間が砂のように指の隙間をこぼれ落ちる。
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疲れているときだろうか、ものの遠近感がふっと消え失せることがある。新宿の駅のホームに降り立ったら、雑踏がふいに歪んで平板になり、わたしは立ち止まった。すべてのものがぐいっと引き寄せられるような、あるいはぐいっと遠ざけられるような。
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ともだちがふたり、校舎の地下でわたしと話したのち、三階へと登るわたしの先回りをして、教室の前で待ち伏せて驚かせようとしたことがあって、黙り込んでしまったわたしを見て、怒らせてしまったと反省していたようすだったけれど、その実、教室の前にともだちを見出した途端にわたしは、ついさっき地下でふたりに会ったこともなにもかも、そういえば夢だった、という錯覚のなかに落ち込んでいたのだった。
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ねむろうとして目を瞑って考え事をする。眠気が募ってくると思考が支離滅裂になっていき、ふとした瞬間に、あ、いますごく支離滅裂だ、と気付く。それは眠りが近いということなので不眠気味のわたしにはうれしいことなのだけど、うれしくて目が覚めてしまうからまた最初からやり直しになる。自分が支離滅裂になっていることに気付いてしまわないように、慎重に慎重に支離滅裂にならなくては。
そうやってねむる努力をしていたら、ねむりと覚醒のちょうどあわいで天秤が釣り合ったような状態へと滑り込んでしまったことがある。明晰夢に似ていたかもしれない。目覚めているので、脳裏に浮かぶ映像は自分で考え出したものなのだけど、半分ねむっているので、わたしはそれを思い浮かべているのではなくその中にいる。夢の中にいるように。思考の中にいるわたしにとって、思考は現実のように手触りがたしかだった。わたしは見たことのない街をどこまでもどこまでも歩いた。足の下に硬い地面の感覚があることが、架空のものの手触りがこんなにくきやかであることがうれしかった。
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自由に書け、と吉田さんから指令が下ったので好きなものの話をしようと思ったのです。ここ数回は「人間」の話をしてきたけれど、それは自分が何に興味がないかを知るための、何が自分にとって不本意であるかを知ることで不本意を避けるための話だったのだから、最後は好きなものの話をしたい。それではじめはファンタジーや幻想文学、幻想的な映画の話を書こうとしていたのですが、いつのまにかこうなりました。これもたぶん幻想の話だと思います。
自由を愛する斉藤さん、自由について自由に語ったり語らなかったりしてください。
この文は怪獣歌会アドベントカレンダー21日目の記事です
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