Xを一個やめた→からの実験報告。
ふと思うところがあって、昨日Xで使っている趣味アカウントを削除した。バックアップも数日か時間がかかるので諦めて、やめたいと思った瞬間に消した。
正確に言うと完全に退会したわけでもない。
検索用に使いたいこともあって現状、英語勉強用と創作用(noteプロフにリンクあり)としてはXのアカウントは残している。
結果、祭りの後の静けさ、薬やったあとの離脱症状みたいなのが出てくる。重い腰をあげてもどこも行くところのなさ。長居する気力もないまま、通うべきところもなくただ街を徘徊している気分だ。
そもそも論
私がX(旧Twitter)をやっていたのはイラストを描いているという、もう発信することがあったから。ネットで活躍しているイラスト作家さんをフォローしたりしていて影響されて楽しかったけれど葛藤した時期で、画力を比べては気分も落ちて絵が描けなくなった時期もあった。
ここ数年は絵をあげたりはしていない。
それとは別で今回やめたくなったのは、発信<受信側になっていたことが大きい。Xの使い勝手が落ちたのもあるのだが、コロナが流行ったりネットで仕事ができるとねんねん家にこもり。書けるもの、考えることは山のようにあるのに発信できなくなった。
発信している内は楽しい。受信する側になると大変だと気づいたとき、受信することを一回断たないと、自分の資源さえ外側にもっていかれて好きにつかわれてしまう気がしたのがこわかったのだ。
幸い、これまでグロとか愚痴とかはあまり情報ネタは流れてはこなかったけれど、困るのが「こういう風に生きましょう」みたいな自己啓発風味の指南。
ポジティブな内容も多いが「正解」「エリート思考」にまみれた投稿を読んでいると、変に心が潔癖になる。意外と毒である。
自分が考えたことや体験談ではないし、コストパフォーマンスはいいかもしれないが、考えなくなる。それが居心地が悪いと感じるようになったからだ。
存在の空白。関心がなくなったのだろうか。好きなものが決まってきたのか。
私は特定の親しいフォロワーやつながりはなかった。それでもXをひらいてみれば社会の動きや変化、毎日は今日一日は何かしら新しいものにふれることができるたびに、私も社会に参加しているのだと、ワクワクするものだった。
でも私は、、、もう新しいことはいらないのだ!!
X以外にも、発信に特化するツール、アプリ色々手を出してはやめたりしてきた。
それでも数十年でそんなに新しいもの、サービスってある??って。そんなに常に新しいものが欲しいのか?私は、、、って最近は思う。
新しいことを取りにいくよりも自分にすでにあるものを掘り下げる方が密度も関心も深い、そういう人になりたいなって考えることが増えた。
新しいものは美しいが、自分を見失う。
ちなみにInstagram、Threads(スレッズ)、このnoteはやっている。
Threads(スレッズ)はスピの気づきも今日考えたことも、写真もざっくばらんにのせられるので、自分でふりかえるメモ帳として便利。
3つだけでも、好きなアーティストもInstagramでフォローして投稿見る方が幸せだし、コンテンツも有料で入ればYoutubeの広告なしで見て知るだけで十分なのだ。
そしてもう一度言う。
今の私に新しいことは必要ない。
…いい映画とか音楽、読書、わからないながらも読み進めてわかってくること、時間をかけることを大前提にしたことで得るかもしれないし、得られないかもしれない「なにか」。
コスパの時間に逆走するようなそういう趣味の存在が私には必要なのだと思っている。