見出し画像

毒を食らわば来世まで

ふる山茶の精怪しき形と化して、人をたぶらかす事ありとぞ。
すべて古木は妖をなす事多し……。

ある女の独り言より
初恋でした。一目惚れでした。
何かに引き摺られて行く様に、わたくしは貴方に恋をしました。
高貴な存在でも何でもないわたくしは、貴方を遠くから見つめることしか出来ません。
それにわたくしは身体を持たないものでしたから、貴方と一夜を過ごす事すら叶いません。
だから、せめてと思い、わたくしの全てを貴方の思いで紅く紅く染まり、そしていつか大輪を咲かせましょう。
酷く手折れられても構いません。貴方の事に変わりはないですから、わたくしはそれを愛として受け止めてみせましょう。
嗚呼、願わくば、貴方の千年先も見えてしまいそうな透き通った瞳に貫かれたい。
貴方の洗練された美しい心の臓を余すことなく食らいたい。
愛しい貴方を早くわたくしの元に落としてしまいたい。……貴方の右往左往する姿はもう見ていられないのです。
わたくしはただ直向きに貴方だけを愛する事を此処に誓いましょう。だからどうか……。
どうか、わたくしに深い愛を、頂戴。

一 喇叭八録と言う男
あるところに、喇叭八録という物書きの、やけに顔の整った男がいた。八録は自堕落な性格で何をするにも時間のかかる、とても厄介な奴だった。八録の母親は、自分を産むために無理をして亡くなり、父には母親はお前が殺したのだ、と毎日言い聞かされて今まで生き育ってきた。遂には見限られ、八録は以前住んでいた家を追い払われて町より遠い村に飛ばされて、無駄に金持ちの父が買い取った屋敷に一人暮らしていた。特に不便はなかったので八録はのうのうと暮していたが、母からも父からも愛されてこなかった八録は、愛というものが知りたくて相当女遊びの激しい男と化して、屋敷に仕えていた娘や、嫁入り前の娘にも手を出す様な愚かな奴になり、村人からは、「お手付き八録」と呼ばれ嫌われ者になっていた。八録の慰み者になった娘達は、貞操を奪われた自分など誰も嫁に貰ってくれない。と自殺していき、その親どもが怒り家に乗り込むこともあったが、そんな時は村の男どもを買収し親どもを殺させ、川に投げ捨てさせた。その他に、自分から股を開く女も多かった。何処ぞの知らない醜男に処女を奪われるなんてたまったもんじゃあないと、八録の元を訪れる。しかし八録は無理にそれで孕まれたら堪らないと、変わらず村の男どもが殺して捨てさせた。
ただ愛というものを知りたかった八録の行為で、村が寂れるとは誰が思ったか。娘の少なくなった村は、子を孕む事が出来ずに段々寂れていった。辺りから聞こえるのは親どもの啜り泣きで、赤子の産声など何処からも聞こえてこなかった。
 八録の家に訪れる親どもの嘆きを八録は聞くこともなく、娘たちの死骸をつまみに酒をあおっていた。そんな事もあって、遂には八録の家には誰も働きに来なくなってしまった。八録は呑気に、屋敷を捨てて町の方へ繰り出そうか、昔からの友人はもう町に移り住んでいたから、そいつの顔でも拝みながら生涯を過ごそうか。いや、女遊びにも飽きてしまったから、町の方で出会った女を最後に、自分の生涯は終えてしまおう。と笑いながら思っていた。時は金なりと八録は直ぐに馬車を呼び寄せ、大量の金を包んだ風呂敷と、下着と浴衣二枚、使い慣れた茶碗を包んだ風呂敷を持って、雪景色を眺めながら、馬車は町の方へと向かっていった。

二 町へ下りて
八録が町へ着くと、すぐさま住む場所を探して翻弄していた。しかし中々見つける事が出来ず、八録は喫茶店で途方に暮れていた。
今の季節が冬真っ盛りな事もあり、町行く人も少なく、相談する事も叶わずにいた。日が暮れてしまって、こんな寒い中に野宿すれば朝には冥土行きとなるだろう……そう思いながら八録は金を払って喫茶店から出ると、八録の目先に、ぼんやりと家が見えた。ハテ、先程まであっただろうかと、忍足で家に近づき見ると、確かに何だか不思議な雰囲気を纏う家がそこにあった。家は地に根をおろしあたかも此処に合ったと言わんばかりの出立だった。それが本当に空き家なのだろうか知りたくて、八録は慌てて喫茶店に戻り、そこの女給に
「あの家は何か?」と聞くと女給は終始決まりの悪いように、
「はあ、あれは曰く付きの家屋です……前の家主がそこで自殺しなすったもので……」
女給の声が段々小さくなっていった。八録は自殺死体など村で散々見てきたので、特に抵抗はなかった。それよりもあの家がどうしても欲しくて、許可は貰えるだろうか。と悶々と考えていると、女給がそれに悟ったかの様に、あの空き家の所有者の町長に話をかけて、あの空き家を譲って欲しい方がいるとお伝えしましょうか、と言ってきた。八録はまたとない機会だと、二つ返事でこれを承諾した。
 そこから町長がバタバタとやって来たかと思えば、顔と顔を近づけてきて「お前さんは本当にあの空き家を貰いたいのかい」と言ってきた。八録が町内長の気迫に負けんように「勿論だとも。金の心配なら要らない、此処にあるからな」とおもむろに札束を見せると、町長は吃驚顔でそれを見た。「これだけあれば、あの空き家を買うのに十分だろう」八録が町長の手のひらに札束を置くと、町長はわなわなと体を震わせて、机の上に空き家の鍵を叩きつけた。そのまま町長は、此方を見ることなく喫茶店から出て行った。何はともあれ願い叶って空き家を手に入れた八録は心を昂らせて空き家へと向かった。

三 古山茶の乙女
早速貰った鍵で玄関を開けると、カビ臭いような……なんとも言えない匂い辺りを漂わせた。まあこれくらいは掃除をしてしまえば変わりはせんだろう。住めば都と言うのだからな、と八録は前向きに考えることにした。取り敢えずこの匂いをどうにかしようと、家の中をうろうろと徘徊していると、何処からか、耳を這いずり舐め回る様な声が聞こえた。
「もうし、もうし。そこの方」
……何事か。まさか、ここが空き家だったのを良いことに、コッソリ住んでいた浮浪者でも居るのだろうか。どこだ、何処にいる。と八録は冷や汗をかきながら血眼になって探した。襖を開けてもいない。箪笥を開けてもいない。障子を開けても、その先には何も無い。姿を現さない声の主に八録はやきもきしていた。……ふと、八録が裏庭に目をやると、そこにある鮮やかな山茶の木が八録の視界を奪った。空き家だった事もあって、手入れはされていない筈なのに、山茶は不思議な程美しく強く咲いていた。
「此方に居りますよ」
今度はハッキリと声が聞こえてきた。先程とは違う、凛とした美しい声色で。此処にいると言われても八録の視界にあるのは、山茶の木だけ。しかしよく目を凝らして見てみると、枝の先の部分か見る見るうちに女が現れていくではないか。女は頭から首まで生やして、艶やかな黒髪を地面に垂らしたかと思えば、静かに此方を見ていた。八録はそんな怪異現象に驚くばかりか、口を開けてぼうっとする事しか出来なかった。
そんな様子の八録を見て、女はクスクスと笑い出したかと思えば、おもむろに口を開いた。
「あのう‥‥出会い頭で申し訳無いのですが‥‥わたくしに一パイの水をいただけないでしょうか……」
八録が女に近付くと、そこになった花が八録の足元にボタリと落ちた。よくよく見れば、葉は所々枯れているようにも見れる。まじまじと葉の方を見ていると女が急に項垂れた。それを見て八録は慌てて風呂敷から茶碗を取りだし、設置されていた鶴瓶井戸から水を汲み上げて茶碗でよそい、その女の口元へやり、飲ませた。
「嗚呼、助かりました。……初めまして。わたくしは此処に咲く椿の……古山茶の霊で、乙女と言います‥…どうぞ、乙女とお呼びください」
古山茶の霊……女‥‥いや、乙女は確かにそう言った。この形容し難い美しさを持つ乙女……なんとも山茶の花に見合う美しい名前だろうか。八録はとても乙女が怪異には思えなかった。ニコリと乙女が微笑むのに合わせて山茶の花が揺らめいた。
「貴方の名は、なんと言うのでしょうか?」
「喇叭……喇叭八録というんだ」
「喇叭八録さまと言うのですね。……この家に住人が出来ることなど久しぶりで、どうも緊張してしまいますね。こんな怪異のいる家ですが、どうぞ良い日々をお過ごしいただければ幸いですわ。‥…ところで、八録さまは何故、此処へいらしたのですか?」
「話せば下らない話だ。……強いていうなら、己はこの町で出会った一番自分に合う女を最後に、自殺してしまおうかと思ったんだ」
「それはまた……如何してそうなったのですか?」
八録は、話した方が早かったなと、ポツポツと村で自分がしてきた事を話し始めた。それを聞いた乙女は妙に納得した様な顔をしながら、
「成る程成る程……。それはただ、八録さまの愛にその女どもが受け止めきれなかっただけでしょう。……嗚呼、ところで僭越ながら、わたくしは生まれてこのかた、誰かを愛すことを体験しておりません。……わたくしは、誰かを愛してみたいのです。……ねえ、八録さま。これは利害が一致してませんか?」
乙女がそう意地悪く八録へ顔をやると、八録は確かに悪くは無いなと思った。愛を知る女が誰かを愛した事が無い。という事は八録の求める愛というものを乙女はくれるかも知れない。まさか最後の女が怪異になるとは、誰が思っただろうか。八録は少し悩む振りをして乙女に向き合った。そうして二人は目を合わせて八録は口を開いた。
「良いだろう、乙女。己が飽きて死ぬその時まで、乙女は己の愛おしい存在あってくれ」
そう言って八録は乙女のふっくらとした艶のある頬に軽く口付けた。乙女は一層頬を赤らめて、花で顔を覆いながら、
「嗚呼……!八録さま、恋って素敵ね。わたくし、何があっても貴方のことを離さないと誓うわ……!」
そうして、愛を知らない男と、愛したい怪異の女との奇妙な同居が始まったのである。

四 欲張る男
同居が決まってその後の暮らしは何ともまあ、新婚生活の様だった。八録は朝起きてから直ぐに裏庭に足を運んで、乙女に挨拶をし、頬に接吻したりし、また別の日には乙女から頬に接吻することもあった。そこから顔を洗い適当に店の店屋物を取って、ちゃっちゃかと朝飯を済ませ、小一時間程乙女に外の世界の話をしてやっている。乙女はずっとこの家に根深く住み着いており、どうやら外の世界をあまり見たことが無いらしい。それを聞いて八録は惜しみなく乙女に話をして、乙女の気になったことが有れば、手に入る物なら直ぐに買いに行き全て乙女に与えてやった。乙女はどうやら八録の大好きな金平糖を気に入った様で、一日三個は八録に頼んで口の中に放り込んで貰うようになった。
午後になれば物書きの仕事に手をつけて、夜更けまでした後、また朝と同じ様に乙女に接吻して終わる。八録の一日は乙女から始まり乙女で終わるものと成り果てた。ただ、夜遅くまで仕事をしていると乙女がそれを気遣って寝かしに来るのでどうもそれがむず痒かった。
 だが八録には頭を抱える問題が一つあった。それは色事についてである。今は愛しい存在として乙女がいるのだが、乙女には頭から上までしかないので、やる事といえば接吻しか無かった。日々が経つに連れて悶々と気が溜まっていくものだから、八録は気を紛らわそうと冷や水を頭から被ったりして紛らわせていたが、どうも耐えきれず、八録は遂に乙女以外の女に手を出す事を決意した。町に出ようとする八録に、乙女が淑やかな声で、何処かへ行かれるのですか?と聞かれると、八録は大袈裟すぎる程落ち着いた声で町へ出てくるよ。と返した。乙女はそれを疑う事もなく八録を心配してくれるものだから、八録は胸いっぱいに罪悪感を抱えたまま町に出た。乙女はそんな八録に熱い眼差しを向けていた。
 町へ出た八録は、花屋に赴いて一輪の花を包んでもらうとそのまま町へ来た時に行った喫茶店へ足を運び、あの時家を紹介してくれた女給を呼んだ。貴方のお陰で家を得れたよ。と感謝し頭を下げると女給は慌てて、困っている方は見過ごせませんわ。と可愛らしい声色で八録に微笑んだ。そうして八録は、少しの御礼です……。しがない物書きの端くれですから、こんなものしか渡せませんが……。先程花屋で買った花を女給の胸にやると女給は喜んでそれを貰い受けた。そこからまた、女給の手を取りもっと御礼がしたいのですが……。と上目遣いで女給の深い深い黒目にジイッと目をやると女給は顔を染めて頷いた。女何ぞ花の一本をやれば、喜んで股を開くものだな、と思いながら、八録は女給を連れてまた外へと出て行った。八録の長く続いた禁欲生活はようやく終わりを迎えたようだった。

五 毒に侵される男
八録は愛人の元へ足繁く通うようになった。乙女への罪悪感はとうに忘れてしまって、数日間家を開けているだけで小言を言ってくる乙女には、この前食べて気にいった金平糖を与えればたちまち上機嫌になり、少し家を開けていても乙女は怪しんでいるような顔で八録を見る事はなくなった。寧ろ、〇〇の羊羹が食べたいだとか、〇〇の店屋物を取ってだとかなかなか図々しい事を言うようになった。八録はその程度で乙女の機嫌が良くなるならと表面上は喜んでそれを引き受けて、乙女が満足した後、八録は自分に快楽を与えることに必死になっていた。
昨日は二軒隣の未亡人。一昨日は行きつけの喫茶店の女給。そして今日は仕立て屋の人妻……。どの女も桜の花びらが敷かれたかの様な鮮明な肌色をし、また、乙女とは違う甘ったるい香りを燻らせていた。それがどうも八録の男心を擽らせて愛しさが増した。今日逢瀬を約束した愛人を待つ時も、人妻らしからぬ幼気な印象を残して、周りの目線も連れて此方へ近づいてくる。嗚呼、とても愛いなあと思う反面、周りの人どもにこの女は己のものだぞと見せびらかしてやりたいと思った。結局は他人の物なので叶う事は出来ないが、抱けるだけ八録は満足した。そうして行きつけの宿屋に連れ込んで念願の接吻をしたかと思えば、愛人は口を開き、「貴方の伴侶になりたい」と言い出した。八録は、「今の旦那はどうするんだ」と問うと、「殺してでも突き放してやるわ。私気づいたのよ。私の本当の伴侶は貴方だったのよ。死んでしまっても蘇って貴方を捕まえてみせるわ」と返ってきた。
八録は頭に石がぶつかった様に重い衝撃を受けた。それは、八録が願った愛というものに類似していたからであった。八録は女が愛する相手を見つけたら此処まで猟奇的になれるものなのか!と心の底からじんわりと熱い熱い感情が込み上げてきて、顔が火照りだした。どうもその熱の行き場をどこかにぶつけたくて八録は愛人を抱き締めた。愛人もまたきつく八録を抱き締め返し、八録はこれが愛というものかと喜んで愛人を押し倒した。さて情事に溺れようかと思ったその時、八録の体に異変が起こった。
 八録はなんだか腹がむず痒く感じてそこに目をやると、急に腹が何かに貫かれた。そこから溢れ出てきたのは血ではなく大量の花弁だった。赤、青、紫、黄……。色鮮やかな花弁がこれでもかと溢れ出てくる。それはまるで床にぶち撒けた絵具の様で、八録は呆気に取られた。しかも腹だけではなく、腕にも亀裂が走り、そこからまた花弁が溢れる。最終的には口からも出てきた。嗚咽しながら愛人の方に目をやると、愛人は八録を不気味に思ったのだろう、金切り声をあげたかと思えば、身体がブクブクと膨れ上がり、遂には破裂してしまった。八録と同じく溢れ出てくるものは血でなく花弁であった。そのままドサリ、と息絶えて目を覚ます事は無かった。自分の身に何が起こっているのかを理解しきれない八録は先程まで愛人だった物に目をやった。頭だけを綺麗に残して、だらしなく涎を垂らし無様な姿になったそれは気味悪くって八録は哀れに思うことが出来なかった。蘇って己を捕まえるんじゃなかったのか?と愛人に問うも勿論返事は返ってこない。そうして八録は煙草を一本ふかすと、自分の身に起こった奇怪なことより、この女の死体を如何してやろうかと必死に頭を回らせた。ようやくしぼって出てきた答えが、近くの山に埋めてしまうという安易なものであった。……少し時が経った頃、いつの間にか大量に敷き詰めていた花弁も消えて無くなっており、どうも不気味で八録はさっさとこの宿屋から出て行こうと、やけに重たい女の頭を片手にひっそりと宿から抜け出した。
部屋から出る際に床の間に飾られていた花が一瞬、女の首に見えたのを八録は見逃さなかった。……そうして八録の手により愛人は山に埋められた。……宿屋から悲鳴が聞こえてきた事を、八録は知らない。
 人妻の愛人が死んで八録は気が滅入るかと思われたが、変わらず八録は未亡人だの女給だのと逢瀬を繰り返していた。しかしどの愛人も人妻の愛人の時の様に、八録は何らかに体を貫かれて愛人は身体が破裂し、死んだ。八録は愛人を全員失い、何も手に付けれなくなった。八録はこれを誰かに相談したくて堪らなくて、とある幼馴染に連絡を取った。

六 縋り求めた先
一筋の蜘蛛の糸に縋るように、八録は幼馴染の山中偲を喫茶店に呼び寄せた。偲は地域の伝承だとか怪異だとかに博学だったので、もしかしたら自分の身に起こったことも知っているかも知れない。と思ったのだ。……約束の時間が過ぎているのに、どうにも八録は自身の身に起こった事が不気味で怒る気にもなれなかった。しかも、喫茶店の何処を見ても、女の首、首、首だらけだった。町に来てすぐ来た時に見えたものは可憐で小振りな花だったのに、今では女の首に見えて、お前を見ているぞと言わんばかりに八録の方を見ている。すると、八録に影が覆いかぶさる。顔を上げると、見慣れた旧友の顔が視界にうつる。
「やあ、遅くなったね、八録。ちょっとやつれたんじゃないか?」
「偲……久しいな。急に呼んでしまってすまないね」
席の案内をした女給に珈琲を一杯頼む。と偲が伝えると、女給は一礼し奥へ行った。
「それで、話って?」
「ああ、実はな……」
自分の身に起きたことをヒソヒソと言おうと思ったら、失礼します。とあの女給が珈琲を持ってきた。突然やってきたものだから、八録はドキリと心臓の鼓動を早めた。‥…下手に話を聞かれて振りまいては困る……。八録がそう冷や冷やしていると、有り難う。と偲が珈琲を受け取った。女給が去ってもなお彼女を見つめる偲に、八録は、あぁ此奴はあの女給に恋をしているんだな、とすぐ感じ取った。思わぬところで旧友の純愛を見てしまった八録は、自分の色恋と比べると甘ったるくて吐き気がしてしまった。
「……偲、お前、あの女給が好きなのか」
「何だい?急に……」
咄嗟に偲が女給から目線を外した。話を逸らすためか次は珈琲に目をやった。八録はそれを見て、自分の身に起きたことを話し出した。
「なぁ偲。花が女の首に見えたらどう思う?」
「えぇ?なんだいそれは。考えたくもない奇妙な話じゃあないか」
「イヤ、実のところ、ここ最近花が女の首に見えるんだよ」
「ははぁ、そりゃ奇っ怪な話だね」
「それは信じてない反応でないか?」
「そりゃあ信じられないだろう。八録がとうとう気狂いになッちまったと皆、思うだろうね」
アハアハアハ、ハハハハ…
一通り大笑いした後、偲が珈琲をグビリ、と一気に飲み干した。そうして少しの間、時計の針が動くのをジィー……と見ていた。
ふと、偲が目を細めて物好きな目で八録を見た。
「真か?」「真よ」矢張り偲は八録の事を気狂いだと疑っていた。
「ああでも、何処かで聞いた事があるよ。古山茶の霊ってね。老いた山茶の木に霊が宿り、人をたぶらかしたりする怪異。山茶に限らず長い年を経た植物は怪異化する可能性があるってヤツだ。それに山茶は、花弁をはらはらと落とすのではなく、まるごとポロっと落ちる珍しいものであり、その為に現在でも死を連想するなどとしてお見舞いなどには不向きとされているし、そういったイメージは昔からのもののようで、怪異や妖怪と結び付けられることも多かったみたいだ」
「ははあ、流石偲だな。よくわかる」
「お褒めに預かり光栄だな。……だが八録。気をつけろよ。どんなに美しい容姿で近寄ってきたとしても、口に接吻してはいけないよ。口から魂を吸い取られて死んでしまうからね」
それを聞いて一気に八録は冷や汗が出た。今まで乙女には頬にしかしていなかったのでなんとか避けていたのだ。偲の言う古山茶の霊という一種の怪異が、あの愛らしい顔の乙女だとすれば、人の子くらいいとも容易く殺せてしまうのだろう。そう考え込んでいると偲が心配そうに
「八録……八録!どうしたんだ」
「あ、嗚呼。……すまない偲」
「矢っ張り体調がよくないんじゃないか?もう帰ろうか。お前の好きな菓子を買ってやるさ」
八録は偲に子供扱いするな、と思いつつも、久しい幼馴染の姿を見て安堵した八録は素直に菓子を買って貰った。そのまま菓子屋で解散し、八録は家に帰り乙女に、お前の好きな金平糖を買ってきたぞ、というといつもなら喜ぶ乙女の反応は見られず、ただ一言。
「八録さま。古きの幼馴染と会話するのは、とても楽しかったようですね」
何故、乙女がそれを知っているのか。少しの静寂が訪れる。……乙女はまた花に閉じ籠り、顔を見せることはなかった。

七 骨が腐るまで君を思え
時が立つに連れて気が軽くなった八録は、相も変わらず八録は愛人を作っては抱いて、身体が花弁となり散り、愛人は固まって死んでいる。だが、偲に言われた怪異に接吻してはいけないという事だけはしっかりと守っていた。八録は感謝してやろうと、喫茶店で会って二週間後、手土産を持って偲の家に訪れた八録は、ずっと玄関前で待ち惚けされていた。幾ら扉を叩こうが返事すらこない事に違和感を持った八録が扉の取手に触れると、鍵はかかっておらず空いていた。あの抜かりない偲が鍵を閉めない事に違和感を持ったが、そんな日もあるのだろうと八録は気にしなかった。奥へ奥へ進む八録は、何とも言えない……腐ったような臭いに鼻を摘んだ。客人が来るのに掃除でもしないのかと憤怒する八録は会ったら怒ってやろうと思いながら、偲の私室にたどり着き、入った。
八録が扉を開けると、部屋はツタ塗れになっており、宙になって浮いた偲がそこに居た。長い時間吊るされていたであろう偲の屍は、蛆がわいて、蚊が集っていた。遂には重さに絶えれなくなって首から下が引き裂かれて落ちてきた。八録はとうとう悪い夢でも見ているのかと思ってしまった。散々愛人どもが死んで、しまいにゃ幼馴染でさえ死んだ。八録は孤独になってしまった。偲の遺体によろよろと近付き、虫がいるのを気にせず偲の死体を抱えて、八録は咽び泣いた。どうして偲が死ぬんだ。嗚呼、畜生。金に眩む人間も、恋人に首ったけな女も、金に溺れる男も、若者を叱咤する爺さんも人殺しも親不孝者も、愛人どもも……どんな奴でも死に顔が綺麗なのがやけに腹立つ午後だった。
一通り泣いて気が軽くなった八録は、偲の形見を頂戴しようと、抱えていた偲の遺体をソッと置いて、部屋を見て回り出した。すると机の上には、やけに生き生きとした花、もとい女の生首が生けてあった。あの腐った偲には到底世話をすることが出来ないはずなのに、と八録は違和感を覚えた。何故、この花はこんなにも生きている?……そこで八録は悟ってしまった。悟ってはいけないことも、悟ってしまった。
八録は必死に記憶を辿る。愛人どもと逢瀬したとき、偲とあの日、喫茶店で話をしたとき。そのどの場面にも花があり、皆、女の生首に見えることが多々あった。もし、その女の生首が全て乙女に通ずるものであったなら?……この女の生首の視界が、全て乙女に繋がってしまっていたら?……逢瀬したことも、偲と出会い乙女について話していたことも、全て筒抜けであったのか!と八録は導いた。ではあの時偲に相談しなければ、偲はこんな姿にならなくて済んだ筈なのに……と八録は自分を責め続けた。だが考えていても偲は戻らないことを八録は受け止めて、手土産にと持ってきた偲のお気に入りの煙草を咥えて火をつけた。一回だけ肺いっぱいに煙を入れて、八録は煙草を手に持った。そのまま煙草を女の生首に持ってきたかと思えば、八録は力いっぱいその女の生首の眼球に煙草を押し付けた。前のように断末魔の叫びが聞こえることもなく、眼球から静かに、女の生首が燃え出す。そこから四方に伸びていたツタへ飛び火し、部屋はあっという間に炎に包まれた。八録は偲の遺体を運ぶことをせず、偲という存在を自分から忘れてしまおうと、ここに置いていくことに決めた。偲をこんな姿にしたあの乙女に話をつけるために見守ってくれと心に念じ、部屋を出る際に煙草の箱を偲の元へと投げて、家から出ていった。
今や乙女に毒された自宅に帰る為に八録が夕暮れに染まる町を駆けていると、ふと偲が恋する女給が見えた。あの喫茶店で働く初々しいおさげ姿の少女らしい面影はなく、美しく化粧をし、うまいところにほくろがさしてあり、タップリとした唇には熟した桜桃のような紅が鮮やかに染められている。その美しい女給の隣には、脂汗の浮いた醜男がいた。八録が瞬時にして自身を売っているのだな。と分かると、あの偲が報われないようで何とも思えなかった。女何ぞ抱いてしまえば皆同じだと言うのにと、八録は密かにそう思った。だがあの純な偲には一生理解出来ないものであろう。八録は涙を流しそうになった。

八 毒回って君と心中
 力強く玄関を開けた八録は、靴も脱がぬまま裏庭へと進んだ。やけにひんやりとした室内が八録の鼓動を早める。冷や汗なんてものとっくに出過ぎた八録は震えて、どうも精神が崩れていきそうだった。そんな時はただ偲の顔を思い出して自分を守った。裏庭に着けば、乙女は何変わりなく蝶と戯れて、羽を口で裂いていたりしていた。
「乙女、起きているか」
「あら、八録さま。……如何なさいましたか?お仕事は終わりましたか?」
何にも知らないと言うような乙女の態度に八録は頭にきて食ってかかり、
「惚けるなよ。己の身体をこんなにしたのは乙女だろう!」
どうにも八録は耐えられなくて、駄々を捏ねる赤子のように騒々しく泣いた。時々嗚咽しながら衣服を脱いでいき、白い肌があらわになったと思えば、右肩から徐々に青くなった肌が、花弁となり、はらはらと崩れ去っていった。入り混じる様々な花弁に混じって椿の花が丸ごと落ちてくる。
「乙女のせいだ。乙女が己をこんな身体に仕立て上げたんだな。さあ謝れ、謝れってば……!」
八録がそれを言ったきり、乙女は一筋の涙を流し、また花の中に閉じ籠っていってしまった。どうも人間臭い乙女の言動に八録は背を向けたくなった。だが八録は乙女のそういった行為で、今もまだ正気を保っていた。
……そうだ、乙女は最後までそうあってくれ。己の決心が揺るがぬように。……
だが、先に口を裂いたのは乙女の方だった。山茶の花をボタリと落としながら。
「……もう、よろしいでしょう。……正直にお話致します。八録さま……八録さまは性に奔放なお方で御座いました。出会った頃から身体の持たぬわたくしが八録さまの思いを射止める事など、無に等しいとわたくしは思いました。嗚呼ですが……八録さまが今こうしてわたくしの元に帰ってきて下さってわたくしは滾っております……。きっとあの幼馴染の男の家で全てを悟ったのでしょう?……真実は八録さまが思った通りですよ。愛人どもも、幼馴染の男もわたくしが皆殺し致しました」
乙女が正直に吐いた。八録は笑い出すのを必死に止めて、また更に追い詰める。
「己は……お前の愛のせいで己は散々だ、なんてことを、お前は……!さっさと己の視界から出て行け。消えろ……消えてくれ……!」
「ええ、わたくしは八録さまの要望通りに消えましょう。これできっとお別れです」
今、乙女は何と。八録がパッと乙女へ見やると、あの黒い目が八録を捕らえた。八録を見続け、目に焼き付け死のうと思っているのだろう乙女は、えずきながら声を出した。その目からは笑みが浮かんでいる。咳き込みながら乙女が茶色の液体を吐き、口元を彩ると、八録に何とも言えない恐怖心が身を襲い、乙女は死の傍にいるのだと実感した。

ぼとり。ぽた、ぽた。

乙女の周りに飾る山茶が落ちてきた。揺れる山茶の木は、露が滴っている。乙女以外の木になった女の生首達は心底迷惑そうに顔を顰めている。

「ね、八録さま。最後にわたくしに接吻をして頂戴。後生よ、頼むわ」

ぼたり。

「最後の最後の願いがそれか」

ぼたり。

「接吻が欲しいのよ」

ぼたり。

「そうか、乙女。己を連れて行こうなんざ、とっくにわかっていたよ」
……お前は今にして怪異になった。お前はただの紛い物だった。女の皮を被ったただの愚かな成底ないの怪異だった。己は今目が覚めたよ。
己が、ただ共に居ただけの怪異に温情など向けると思っていたのか。……
八録は手もとにあった剪定バサミをおもむろに取り、古山茶の女の首にズプリ、突き刺した。
「あ、?」
どうにも頭に血が昇り、手が震える。乙女の首は未だに枝に食い付き落ちる気配はない。乙女がギョロリと自身の首元を見ると、鮮血が雪に広がっていた。人間では有り得ない程の血は、留まるところを知らないまま。

「……中身。わたくしの、なかみ。まだ赤かったのね」

そこから乙女は、壊れた様に言葉を繰りかえした。血が八録の服を染めようとも、八録は剪定バサミを握る力を緩めずに、何度も何度も何度も何度も何度も何度も乙女の首を刺した。

「あ、あ、あ、嫌。いやよ八録さまやめていや、やめて。やめてよやめて頂戴」
「乙女」

ズプリ。また深く裂いてやる。

「やだやだ聞きたくない何これ、何よこれ汚い汚らしい駄目よもうわたくしはあたしは何?八録さま……八録さま八録さま何処にいるの?」
「‥…乙女」

ズプリ。そら、また深く裂いてやろ。

「くそ、くそ。ウソよだって、ねぇ可笑しいじゃないの。あついのあついわ……嗚呼喉が焼けてしまいそうよ……」
「乙女、聴け」
「じゃあ貴方は。貴方は何。何なのよ。わたくしは、八録さまの最後の恋人として居たいだけなのに。……わたくしはただ誰かを愛したかった。恋したかっただけなのに……それなのに、お前は何なんだ。お前は……!」
知るか。己だって最後にしようとした女がこんな事をする怪異だなんて、誰が始めに思ったか。八録はそう言ってやろうかと思ったがどうも口が動かない。黒が古山茶の女の心を染める。それは愛と形容し難い汚れた何か。赤が八録の視界を奪う。それがどうしても八録の心を沸き立たせた。もっと乙女に罰と悲しみをぶつけてやろうと。八録は必死に耐える乙女を見て心が疼いた。

「乙女、いいだろう。お前のその愛憎に報いてやろう」

「ああくそ。許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない。お前だけは死んでも……死んでも!」

「許さなくていい。己は今、お前に恋したんだから」

どさり。

遂に古山茶の女の首が雪の上に落ちた。合わせて突き刺したハサミも落ちてきた。八録は静かに火照った体を静める為に、目蓋を落として深呼吸し、また開いた後、ついさっきまで女の首だったそれは、あるべき花の姿に戻っていた。八録は恍惚とした顔でその花を拾うと、汚れていない奥の花弁の方に接吻をした。お前だった花は美しいよ。己を思って色を付けたのだろう……。八録はそう考える事にした。そうでもしないと、体に罪悪感なんてものが絡んでしまうから。嗚呼、でも。八録を生涯愛してくれるのは乙女しか居なかったのだろう。
改めて八録が花を見つめると、花が首部を垂れている様に見れた。
「乙女」
それを見て、八録は思わずそれを口に放り込み、クチャクチャと噛み締めてそれを飲み込んでしまった。愛しい乙女を食べたら、己は乙女の心が分かるんだろうか。……いつか乙女の夢を見よう。そうやって生涯を越えよう……。胃まで流れていったのを感じると、八録は腹を抱えてこう言った。

「己と、来世で結ばれてくれるかい……」

____そこから一年後、八録が町に来た時と同じように雪が降っている。古山茶の女は何処かに消え失せてしまって、もう花が女の首に見えることもなくなった。八録は以前の様な生気をなくして、雪よりも白くなった肌に、骨が浮き出てしまい、ただただジィーと床に伏せて、庭に咲く椿の花を眺めるだけの生活を送っていた。旧友だった山中偲なんて男も骨壷の中で静かに眠っているし、話し相手は彼しかいなかったから話をしようとしても一方通行ばかりでどうしようもなかった。……あの古山茶の女の首を落としてから、八録はあのなんとも言えない、冷めやらぬ感情を抑える為に朝まで自慰に耽ってしまっていた。古山茶の女の血がベットリとついた服は、ほのかに甘い香りがしたことを鮮明に覚えている。だがそれだけを覚えていようと、結局はあの古山茶の女が訪れることはないのだ。……こんな別れをしなくてもいいじゃあ無いか。勝手に己の魂の一部を持って行ってしまって……。そう残念がる八録は、何やら体が妙に思えてきて、ハテ、と思い自身の左手の薬指を見ると、そこから花弁が零れていた。その花が、かの乙女のようでいて。

「わたくしと、来世で結ばれてくれるのでしょう」

そう聞こえた途端、八録は安堵して、明けぬ孤独の宵に身を預けて眠っていってしまった。

冬のとある日、椿は庭に咲いたばかりである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?