猫リセット
ファミコンには機体に裸のリセットボタンが付いていて、それを猫が踏んでしまう事を猫リセットと呼んだらしい。実は、switchが覇権を握る令和にも猫リセットはあって……
大学の二回生になった途端、新型コロナウイルスのパンデミックで講義はフルリモート化。キャンパスは勿論、いつもバスケをしていた体育館にすら休業の張り紙がされた。
進級してから同期の顔は見てない。
最近は入学した頃の新歓で知り合った彼女と、出席が不可能になった都合で倍増された講義の課題をお互いの部屋で取り組み続ける、うだつのあがらない同棲生活をしている。
猫がボタンを押すほど唐突に、軽率に、簡単に世界は変わってしまった。
「パンデミックでもコロナ渦でも生々しいから、猫リセットで。山城くんが先生になれたら、子供達にもそう教えてよ」
いつかアイツが言ってたっけ……
雨天、池袋サンシャイン60通りの夜を見かけた。
*
摩天楼のビジョンやトラックの看板、時には人間の肩に背負われた電光掲示板が発する光が夜雨に反射して、グラフィティの様に闇を彩っている。
夜景を背後へ、自撮りしたり他撮りしている派手な格好をした若者の群れを尻目に、俺は自転車を道の端へ停めていた。
【デリバリー \300 7minutes 1.4km なか卯 東池袋向井原店~】
軽快なメロディと共に配達リクエスト画面が表示される。額は安いが、2kmもないなら行幸だ。『配達』をタップして、マップに行先の経路が表示された。
バックパックからレッドブルとウイダーゼリーを取り出し、飲み込む。食事というよりか摂取を終え、適当なローソンのゴミ箱に捨ててから、濡れたサドルに尻を乗せた。
サンシャインプリンスホテル沿い、ネオン街をあとにペダルを踏みこんだ。
雨粒で、防水フードのあちこちが揺れる。
曇天が鳴っていた。
*
「こんにちはー。ウーバーイーツでーす」
なか卯でのピックを終え、配達先である茶色いマンションの二階、踊り場にいた。
大塚だった。池袋の賑わいとは打って変わる、閑散とした住宅街の神妙さに、俺はなぜか目眩がする様だった。ゼリーとレッドブルが唾液に混じって舌を纏う。
「あ! いまいく!」返事、幼い声。子供!?iPhoneを見る。午前一時……
ドアが開いて、凛とした目つきの子供ふたりがそこに立っていた。多分兄弟。
「……えーっと、注文番号AzK246さん?」
「うす! これ、お金。なんだっけ、だいびき?」
「あーそうそう、代引き。ありがとうね。これ、なか卯の親子丼 京風つけものセット」
恐らく弟と思われる方に、なか卯のビニール袋は間もなく部屋の奥へと隠された。
……ここまでだ。マンションを降りて、また池袋の方で配達依頼を待てばいい。
いつも通りだ。深夜に子供が受け取ったって、なんら変わりない……
「ええと、お母さんは?」
言葉が口を衝いて出ていた。ゼリーとレッドブルより先だった。
「仕事か男! どっかいってて、そんないない」
「そっか……もう夜中だけど、眠くないの?」
「コイツがうるさくてねれねー!」
兄は居間でビニール袋ごと親子丼をめちゃくちゃにしている弟を指さした。
室内の様子は燦燦たる物で、部屋干し用の物干し竿にかけられた華奢な洋服だけが整理されており、9%のロング缶を始め、あらゆる酒の瓶やら缶やらが洗わず放置され、コバエが旋回するスープが残ったカップ麺に、錆びたヘアアイロンとシケモクが沈んでいた。
「バカだから、言葉も使えんし。暴れるからずっと俺がみてんと」
「お父さんは……」
「んなヤツいねぇよ! いなくなったわ!」
「……ごめん」
「おまえも忙しいの?」
「え?」
「仕事、ウーバーイーツでしょ」
「ああ……まぁまぁかな」
「……あんま仕事ばっかしてると、大事なものぽっかり忘れて、危ねーよ」
*
大塚のマンションを後にして、また池袋で配達に徹する事はなく、そのまま家路を走った。
夜風に当てられる最中も、俺の心には先程の兄弟の表情や言葉が漂っていた。
コロナに社会が犯されてから、時代に住処を奪われた様な被害者意識を覚えている……
だがそれも先程の兄弟に比べれば、ちっぽけで贅沢な悩みなのではないか。
疫病で社会が止まった時、不満や怒りの矛先はどの方角に向ければいい?
マスクの裏に置き忘れた意味を、いつ取り出して言葉にすればいい……?
*
アパートに着いてからドアを開けると、闇だった。
家中の照明が全く点いておらず、テレビの明かりだけが夜を照らしている。
かろうじて見える崩れたままのローファーで亜美が居ることは分かった。
「ただいまー」
「あ、お帰り。ごめんね、電気消してた」
「……寝てたの?」
「アマプラ観てた。加瀬亮のやつ」
それから亜美が用意してくれていた夜食をふたりで食べた。
俺が大学を中退してからと言うもの、亜美は朝から夜までリモート講義の課題に追われ、俺は俺で夕方から深夜までの配達を終えてから、たまに食卓を共にする程度の付き合いになっており、亜美との関係は所謂、自然消滅に近付いてるのかなと最近は思う様になった。
いつの間にか消えていたテレビのチャンネルを、深夜のニュース番組へと切り替える。
四月から相も変わらず、マスクをした司会がマスクをしろと訴えていた。
「緊急事態宣言、いつまでやるんだよ」
「長いけど、仕方ないよね」
「まぁ、おかげでウーバーは回ってるんだけど」
「……そうなんだ」
「マスクもホントだるい。あれ、三つの密をだっけ。相田みつを? しょうもなマジで」
「うん」
「……さっきさ、大塚で配達あったんだけど」
「……うん」
「ほんと、こん位の子が代引きに来てさ、なんか部屋もぐちゃぐちゃで? 毒親ってやつ?」
「うん、それで?」
「……え?」
「ウーバーで、こんな時間なのに子供が代引きして、多分毒親で。で、それがなに?」
「……あぁ、いやぁ。なんか、ヤバいよなーって……」
バン!と亜美が机を叩いて、玄関に置いてあった配達用のバックパックに皿を投げた。
平皿はバックの角に当たり、一瞬で弾け、散り散りになって目下に消えた。
亜美の声は痛々しくて、俺は、次の言葉が浮かばないまま突っ立ているだけだった。
「あのさ! 山城くんはさ! 記憶喪失になっちゃったのかな!」
「記憶喪失……?」
「前は! もっと笑ってくれたよ! わたし、毎日楽しかったのに……」
「ごめん、マジで俺、分かってないや……や、悪気はない、本当に」
「わざとじゃないのは分かってるよ! 前は教員免許とるってゆって、頑張ってたじゃん……大学辞めたし! 山城くんがコロナで病んでんのは知ってるけど! それ私もだから!」
「……でも俺だってさ! 中退したよ! したけど、いまの情勢的に大学なんて……」
「情勢とかコロナとかどうでもいいよ! 気にすんなよ! わたしは、先生になるの諦めてウーバーやって、時勢がなんだ子供が毒親だテキトーに言ってるだけのいまの君がちょうダサいって言ってんだ! んなの山城くんじゃねーよ! もう、解釈違いなんだよ!」
ああ……
ああそうか、俺はいつから……
雨は未だ止まず、それどころか強さを増すばかりで、
学生アパートの薄い屋根に、細かくも重い音がこだましている。
キャスターが言う、「本日の感染者数」たぶん明日も明後日も言ってる。
どうにもならない、どこへも行けない。それなのにいつか、
いつから俺は、生き急いで……
この家で。
帰りたい、どこに?
どこへ行こうとしている?
*
『はい、オールナイトジッポです。今夜も、明るい所では触れづらい世の中のアレやコレやを煙に巻いていこうと思います。今回は昨今のコロナ渦における若者の人生観の変化、その流動性について、SNSに詳しい教育評論家、沖ママと語っていこうと思います』
『沖ママでーす。今夜はよろしくお願いしまーす』
『語尾が上がるタイプですね、よろしくお願いします。早速なんですが沖ママが言うに今の若者のカルチャーは、SNSをベースに形成されていると?』
『そうですねー。多分みんな、ほら、ずっと家にいるじゃない。で、暇なもんだからネットばっかりやってるでしょー。うちの子もねー、ずっと友達とSwitchでフォートナイト……』
何気なく再生したスポティファイのラジオを聞いてるうちに、池袋サンシャイン60通りが見えた。もう明け方も近くなっていたので、さっきの様に街は光っていなかった。
雲は未だ晴れない。
亜美には引き留められたものの、何も言わず家を出ていた。
いや、何も言えなかった。彼女の言葉は正しかったから。
先程からラインの通知が不定期に鳴っている、亜美からだ。
これからやる事を終えてから、既読にしようと思った。
大塚の方へ向かう、都道435号線沿い。
道は暗く、コンビニの明かりとヘッドライトに照らされた一部分しか先は見えない。
早起きの猫もいない、静謐な住宅街を走る。
自転車を路駐して、茶色いマンションの二階、ドアを叩いた。
「置き配でーす」
ゴト。
*
iPhoneが振動して、受話器のマークをスワイプすると亜美の声がした。
「ああ山城くん、やっと出た……いまどこなの」
「大塚。さっき話した子供のマンション」
「え、なんか変なことしてないよね」
「……ピザ、ピザ置いてきた」
「ピザ? 配達……?」
「いや置き配のフリしてピザ置いてきた! ピザって絶対なか卯と合わなくね」
「え……え、うん、合わないよ。ピザとなか卯は。合わない」
「よな。いま気付いた……どうしよ」
「えええ……どうしようもないよ」
「やっぱないか」
「ない。ないから、帰ってきな。帰って、仲直りしよう」
俺の突飛もない行動で、返って落ち着きを取り戻した亜美と、制限の多い生活への鬱憤を愚痴り合った。俺は俺の、亜美は亜美の苦しみや悔しさがあった。
思えば社会全体の混乱にあてられて、自身へも過剰に負荷をかけていた様な気がする。
マスクの裏に置き忘れていた心配や不満を吐き出すきっかけは、驚くほど身近にあった。
「そういえば」と、亜美が探してくれたネットの求人募集には……
『リモート塾講師募集中! 自宅からでも、子供たちの先生に!』
猫もいない様な街に、またピザを配達しようと思った。