サッポロ・ラバーズ
この写真は、みんなのフォトギャラリーから使わせていただいているものです。ありがとうございます。
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やばい、寝坊した。
メガネ型デバイスglazie(グラッチェ)に表示されている不在着信と時間が目に入って悟った。昨日地元の友人とオンラインでゲームをやっていて、すっかり夜更かししてしまったのだ。
やばい、本当にやばい。恐る恐る履歴を確認してみると、やはりリコからの着信だった。大学に入って付き合ってちょうど一年。お互いに田舎から出てきたというのもあり、気が合って交際が始まった。
glazieをかけたとたん着信が入った。リコからだ。右の弦に触れて通話を開始する。
「ヨート、今どこにいるわけ?」
リコの苛立った声が弦からこめかみを通って耳に響く。
「今、ええっと」
頭をフル回転させて言い訳を考えるが、リコはそんな暇も与えず追及する。
「まさか今起きたとかないよね? ね?」
「いや、それはない! なんかアプリの不具合なのか、地下鉄乗れなくってさあ」
「決済アプリ、複数持っていないの?」
「うん」
「もー」
うんざりした声に、申し訳なさで胃がぎゅっと縮まる。
「ごめん」
「いいから早く来て!」
ブツッと通話が切れた。早くいかないとまずい。前に遅刻した時は一週間以上口を利いてくれなかった。俺は手早く身なりを整えると慌てて着替え、外に飛び出した。
大学が近いせいもあるのだろう。すすきのや大通りほどではないにしても、ここ平岸でも人が多い。誰もかれもglazieのレンズを通して、複合現実の世界を見ている。
「うわあ、なんだよ、広告か」
顔のすぐそばにコンビニの立体広告が現れた。わかってはいるものの、いまだになれない。通りでは他にも銀行のロゴやファミレスのビビットな色の文字が飛び交って己の存在を主張している。メガネ越しに見るこの街はきらびやかで、現実感がなくて、田舎者を圧倒するには充分だった。俺はいそいそと平岸駅に向かう。
平岸駅のホームに着くと、後ろから声が聞こえた。
「ごめん、遅れちゃって」
声をかけたられたのかと思って振り向いたが、勘違いだった。少し離れたところで、端正な顔立ちの男が膝に手をつきながら息を切らしている。女の方はそれを慰めていた。
「大丈夫、全然待ってないよ! 今日のデート、楽しみだね」
落ち着きを取り戻した男は女の手を握り、まるでカップルのように仲睦まじく改札を通って行った。もっとも、彼女の方は最近流行っている二次元彼女。男の方は顔も服装もデジタル加工していた。glazieを外して見ると並んで歩いているのは白Tシャツを着た中年のおっさんとアンドロイド。何もしてなくても一回のデートには料金がかかる。そんなものが果たしていいものなのだろうか、と無粋なことを考えながらメガネをかけなおしたとき、チャットが届いた。リコからだった。
『まだ?』
三文字から放たれる威圧感。二次元彼女もいいのかもしれない。一瞬頭によぎった考えを振りほどき、チャットを返す。
『もうすぐ!』
既読はついたものの返信が来る気配がないのでそのまま改札口へ向かった。大通行きの切符を選択する。
「あれ?」
購入できない。もう一度試みたが、だめだった。決済アプリを見てみると、【重要】と書かれたメッセージがあり、こう書かれていた。
“十二時までメンテナンス中でございます。ご不便をおかけして申し訳ありません”
血の気が引いた。このご時世現金なんて普段持たないし下ろすとしてもその決済アプリが必要だった。今の俺は、まさに文無しだった。
『ごめん、やっぱ少しかかりそう』
リコにメッセージを送ったが、先ほどと同様既読はついたものの、返事はこなかった。
普段からランニングはしているものの、平岸駅から大通に向かうまで走るのはつらかった。幌平橋を渡り、中島公園を横切り、狸小路を横切る。
やっとたどり着いたときには、へとへとだった。大通公園で婦人が芝生のところでヨガのオンライン講座を受けていたり、子供たちが立体映像に興奮しながらゲームを楽しんだりしていた。そこを通り過ぎると、待ち合わせ場所の定番である噴水にたどり着く。glazie越しに噴水を見れば水のベールの上を妖精が躍っていて、まるで恋人たちを祝福しているかのようだった。
二次元彼女や彼氏などでにぎわっている中を、ぐるっと一周する。しかし、リコはいなかった。もう帰ってしまったのだろうか。いくら遅いからと言って、せっかく来たのに帰ってしまうなんてあんまりじゃないか。俺は少し離れたところにあるベンチに腰を下ろし、どっと疲れが来るのを感じながら空を見上げた。
――二次元彼女か。
ふと頭によぎった。設定で自分好みの恋人が作れるシステム。もしリコに愛想をつかされたら、試しにやってみようか。考えてみれば今の時代、男女が付き合うなどコスパが悪いのかもしれない。お金はかかるが、遅刻した時に冷汗をかくことも、不機嫌な彼女にペコペコすることもなくなる。気楽なものだ。
それなのにどうしてだろうか。気が付けば俺はまた立ち上がって彼女を探している。俺は噴水から少し離れた場所に行って目を凝らす。蝶のエフェクトが、あらゆる場所の広告がやかましく宙を舞う。俺はglazieを外して周りを見る。舗装された道。複合現実を増強するための装置たち。普通の芝生と変哲もない木々。外見をデジタルに頼り切って、着飾ることをやめた人たち。メガネを外した世界はのっぺりとしていて、空虚だった。そんな中だからこそ、彼女はひと際魅力を放っていた。俺はリコの姿を捉えると、力を振り絞って駆け寄った。齢六十には、やはりこたえるのだ。
「ごめん、遅くなって」
「遅すぎ」
glazieを外したままリコを見る。目元や頬の皺が老いを感じるが、それを差し引いても内面から湧き出る美しさがあった。同じく平成に生まれでありながら、歳をとっても学び続けようと大学に入った彼女に共感し、若々しくあろうと自分を磨く姿にあこがれたのだ。
「……ごめん」
「ばか」
立ち上がったリコに手を差し伸べる。
「服、似合ってるよ」
言ってから恥ずかしさで変な汗が出てきた。いくつになっても同じだ。
「デートですから」
リコは勝ち誇ったような顔をして手を取り、俺たちは午後のきらびやかな大通公園を歩いて行った。
お金が入っていないうちに前言撤回!! ごめん!! 考え中!!