淡麗日和
このイラストは、みんなのフォトギャラリーから使わせてもらっています。ありがとうございます。
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スーパーから帰ってきて、六時。夕方にしては暗すぎて、夜にしては明るい。四ノ原椋(しのはらりょう)はスイッチを入れ、蛍光灯をつける。カチカチと何度か瞬いて、頼りない光が侘しいワンルームを照らした。残った洗い物、冷蔵庫の横に置かれたペットボトルやトレーを捨てたゴミ袋。ソファの前のローテーブルは、昨日から変わらず散らかったままだ。
「淡麗冷やしとくよー」
「おー」
七倉航汰(ななくらこうた)がビニール袋の中を物色しながら言うのに生返事で答えると、着ていたコートを脱いでソファに投げ置いた。
「お、なんだ冷えてんのあるじゃーん」
七倉は嬉しそうに声を上げると、冷蔵庫から五〇〇缶を取り出した。
「おい、バカ! それは俺の……ああああ!!」
四ノ原が阻止しようとする前に、プシュっという炭酸がはじける音が響いた。
「飲むなよ! 俺の楽しみだったのに!」
「ほら、まずはジャブというか」
「なんでジャブが買ってきた三五〇缶より重いんだよ」
四ノ原の抗議などどこ吹く風。七倉はぐびぐびと喉を鳴らし、満足気に吐息を漏らす。それからもう一本五〇〇缶を冷蔵庫から取り出した。
「まあまあ、落ち着けよ。ほれ、お前の分もあるから」
「俺が買ったんだってーの! ったく」
にらみながらぶんどり、四ノ原も缶を開けてぐいっと飲んだ。やわらかい炭酸が舌の上で踊り、アルコールの香りがふわっと香る。ひとつため息を吐いて、ローテーブルの上の片付けに取りかかった。散らかっているチラシの束をまとめてテーブルの隅に置き、昨日食べた弁当のトレーやら割りばしやらを捨てに台所へ行く。その時ふと、昨日の出来事が脳内で再生された。
——うち、もうダメなんだわ。
バイト先の居酒屋の店長から、そう告げられた。これから準備しようと、ベッドから起き上がったときに鳴った電話でのことだった。
「ほんっとにごめん! もう、店続けられないんだ」
聞くところによるともともと経営が傾いていたらしい。そこに新型コロナによる自粛要請が追い打ちをかけて、店を畳むことになったのだった。スマートフォンを持つ手が震えていた。鼻声になっている店長をなだめながらも、血の気が引いていた。
チン、とレンジがなったのが聞こえて、我に返った。
「俺たち、クビになっちゃったな。ハハハハ」
考えていることがばれたのか、七倉は買ってきたお菓子や温めた総菜を並べながら力なく笑う。四ノ原ははっとして、弁当のトレーをゴミ袋に押し込めた。
「まあ、仕方ねえだろ」
四ノ原は七倉の隣に腰かけ、スーパーの袋から取り出されたつまみの数々を眺める。ポテトチップス、チーカマ、それと半額になっていた唐揚げとたこ焼き。
「俺さ、昨日ずっとアプリでアニメ見てたわ。一クール分全部見たの。そしたら最終回のエンディング後に、“二期決定!!”ってさ。待てねーよって」
七倉は冗談っぽく四ノ原の肩をぽん、と叩くと、唐揚げを頬張った。大学生の時も、一年前に再開した時も、変わらなかった。
「シノは何して過ごしてた?」
「俺は……」
食べていたたこ焼きを飲み込んで、昨日を振り返った。電話の後、しばらくベッドの上で固まっていた。考えようとしても店長の言葉がトラになって頭をぐるぐる駆けまわり、バターみたいに思考が溶けた。新卒で入った会社が頭をよぎる。直属の上司が嫌で、なんとか二年働いたものの、とうとう体調を崩してしまって辞めたのだった。あのまま勤めていた方がよかったのか。そんな考えが浮かんだが、すぐにかき消した。
「なんにもしてなかった」
とりあえずコンビニに行って、やけ酒しようと500ミリ缶を二本買ってみたが、帰ってきたら眠くなって寝てしまった。
「なんだよ。せっかくの休みなんだからもっと色々しなきゃあ」
「休みじゃなくてクビだよ」
七倉がうつむいたのを見て、うっかり余計なことを言ってしまったのだと悟った。四ノ原はきまり悪く頭をかく。
「悪い、なんか。ナナはさ、いつでも楽しそうだよな。うらやましいよ、そういうとこ」
なんとか明るい声を出しても、七倉の暗い表情は変わらない。どうしようもなく、とりあえず缶に口を付けると、七倉の口が開いた。
「ほんとはさ、すっげえこえーの」
ぽつり、と言った。小さく空いた缶の口を見つめながら、七倉は続けた。
「今までのんきに暮らしていたツケが、こんなふうに来るなんてさ。明日も明後日もわかんねえっていうか」
乾いた笑いを一つすると、七倉はソファにもたれた。四ノ原は面食らっていた。
会社を辞めたあと、途方に暮れていた時ときに七倉と再開し、働いているバイトを紹介してもらったのが一年前。卒業してからも変わらず要領がよくて、おちゃらけていた友人がうらやましかった。まさか、彼のこんな弱弱しい姿を見るとは思ってもみなかった。
——こいつも、まいってるんだ。
捉えどころのない今に振り回されているのは、自分だけではないのだ。四ノ原は缶に描かれている麒麟の絵をじっと見る。
「今日がある」
「え?」
四ノ原はぬるくなった淡麗を一気にあおり、宙を見つめた。それから、口を開いた。
「少なくとも、今日がある」
七倉は顔を上げる。四ノ原は友人の方を向く。
「とりあえず働ける場所、探してみようぜ。工事現場とか日雇いのところ、あるかもしれないし」
「……そうだね。うん、そうだよな」
明るさを取り戻した七倉は、缶の中身を飲み干した。四ノ原はソファから立ち上がって、冷蔵庫から冷えた淡麗を二本取り出した。ソファに戻ると、一本を七倉に渡す。
「さんきゅ」
七倉は缶を開け、吹っ切れたように酒を飲んだ。四ノ原はソファに腰を下ろし、ニヤッと笑う。
「お前、コロナ明けたら一杯おごれよ」
聞いた瞬間、七倉は目を丸くした。酒を含んだままなので頬も膨らみ、なんだかタコみたいだなと思った。
「えー、金ねーよ」
丸くなった顔がしぼんだかと思うと、口をとがらせて言った。四ノ原は七倉をにらんで、
「500ミリ」
となじると、観念したようにため息をついた。
「わかった、おごるよ」
ソファの上で立ち膝になり、後ろの窓を開けた。冷えた夜に虫はいない。乾いた土の匂いが、胸を満たした。
「何してんの」
「換気だよ、換気」
春風が吹いている。変わっていく世界の、ありふれた夜だった。
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この物語はフィクションです。みなさんの頑張りが功を奏して、自宅待機の輪が広がっていますね。引き続き3密を避けていきましょう。