社会人をダメにするマウス
このイラストは、みんなのフォトギャラリーから使わせてもらっています。ありがとうございます。
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時代の変化と言うのもあり弊社でもリモートワークが取り入れられたが、山のように積みあがる業務は変わらなかった。寝不足の眼をこすりながらメールをチェックする。仕事がソーシャルディスタンスを保ってくれないせいでキリキリと腹が痛んだ。折り返しの水曜日だと言うのに資料作りが進んでいない。今日明日中に仕上げなければならないのに容赦なく時間は過ぎていき、八時半からのオンライン朝礼が始まった。
「新規プロジェクトについて市場リサーチを誰かに任せたいんだけど……」
上司が新規プロジェクトの割り当てについて話している。私は当てられないように必死で祈る。化粧だってろくにできていないのだ。薄い顔は、今日くらい役立ってほしい。
「これについては……荻浦。お願いね」
「えっ、私ですか?」
素っ頓狂な声のまま聞き返すと、上司は当然のように頷く。
「君しかいないもの」
「すみません、これ以上はちょっと……」
困惑した私を見て上司はため息をつく。オンラインで映っているはずなのに、みんな空気みたいに気配を消している。我関せずといった態度である。
「あんまりこういうこと言いたくないけどさあ。もうちょっと頑張った方がいいと思うけど」
私はただ下唇を噛むだけだった。誰も何も言わない。さっさと終われと無言の圧力が画面から伝わる。
「わかりました。やらせていただきます」
朝礼が終わり、メンバーがログアウトする。私も退出し、椅子の背にもたれる。頭が重い。このまま気を失いそうになっているところに、インターホンが響いた。のろのろと立ち上がり、通話ボタンを押す。
「……はい」
「宅急便でしたー」
何か頼んだだろうか。玄関のドアを開け、荷物を受け取る。馴染みのある段ボールを見て、合点がいった。そういえば注文していた。
早速包みを開けて中身を取り出す。通称“社会人をダメにするマウス”。手首にフィットするクッションがついたもので、密かに話題になっていた。我ながら下らない買い物をしたなと思う。不満の数だけ貯金がたまるし生きる活力がない分、生活コストもかからない。だがその日だけ、魔が差したのだ。
モグラだかネズミだかわからないキャラクターデザインで、黒いボディに白で描かれた目と鼻がふてぶてしい。しかしどこか憎めない愛嬌があった。SNSではこれが机の上の枕としてちょうどいいと話題になり、検索すれば「夢の国にいざなうマウス」だとか「仕事が手に付かない。マウスなら頭についているけど」とコメントが出てくる。
実際に使ってみると確かに触り心地が良く、手首への負担が少ない。頭を載せたくなる気持ちもわかる。オンラインの打ち合わせの時も使ってみたが映りこむほど邪魔にならず、データ入力やらリサーチやらでかれこれ十二時間はパソコンの前に座っているが、手首の痛みはいつもより少なかった。
資料作成がひと段落したところで、私も試したくなった。誘惑的なクッションに、頭をそっと載せてみる。なるほど、高さといい柔らかさといい、申し分ない。頭を載せているうちに、体から力が抜けていく。それから間もなく、目の前がブラックアウトした。
夢の中にいるのだろうとなんとなくわかったのは、眠っている私と迷惑そうにしているマウスを、二センチくらいになって見ていたからだ。
「重いんだけど」
マウスはもがきながら言う。後ろを振り向いて訴えようにも、体の構造上無理があった。ふてぶてしい顔が歪む。そんな姿を、私は黙って見ていた。
「重いんだけど」
寝ている私は頭を持ち上げるどころか、さらに体重をかけていく。マウスは苦痛に喘いでいる。体を左右に揺らして何とかしようとしているが、成果は得られなかった。私はただ見ている。マウスは呻く。呻きながら、泥をまき散らす。マグカップもノートパソコンも広げている書類も寝顔の私も小さな私も、泥にまみれていく。
「重いんだけど」
マウスは言いながら泥をばらまくのをやめない。机の上が田んぼのようにぬかるんでいく。足を上げようとしても上がらない。もがこうとしても無力で逆らえない。マウスの届かぬ抗議を聞きながら沈んでいく。泥に包まれる感覚を、心地よく思いながら沈んでいく。
目が覚めると私は元の大きさに戻っていた。部屋に泥はなく、変わったことと言えばマウスが潰れていることくらいだ。しびれた頬をさすりながら、パソコンを起動する。時計を見ると朝八時を示していた。カーテンを閉めていたから気づかなかったが、たっぷり十二時間は眠っていたようだ。報告会はどうなっただろう。開始は夜九時だったはずだ。本来は焦らなければならないはずなのに、不思議と穏やかな気分になっていた。
カーテンを開けると爽やかな青空が広がり、スズメがさえずっていた。清々しい朝が床に散乱した空のカップ麺や弁当がらやおにぎりの包みを晒す。今日は何ゴミだろうか。収集日を確認するとちょうど資源ごみだった。
なぜ私は頑張らなければならないのか。不満の残骸を拾い、指定のゴミ袋に入れる。なぜこんな会社のために生活を差し出さなければならないのか。かさぶたみたいに乾燥した汚れをティッシュで拭く。片付けた部屋は先ほどより広く、明るくなった。
スマホを見ると上司からの着信が大量に来ていた。私は履歴をタップして折り返す。数コールで相手は電話に出た。
「荻浦! お前、何やってたんだ!」
電話から唾でも飛んできそうな勢いだった。静まったところで、私は言う。
「申し訳ありません。お話があり、お電話差し上げました」
上司はいつもの私と違うことに気が付いたのか、言葉を失っている。
「会社、辞めさせていただきます」
絶句したのか少し間があり、しかしその後すぐに声を荒げた。先ほどと負けないくらいの怒声で人事やら裁判やらと何事かを熱弁していたが、構わずに電話を切った。
すぐに人事に辞める旨を伝えると、五分も立たないうちにPDFが送られ「印刷して記入・捺印の上、荷物と一緒に提出願います」と連絡が来た。私が思うよりもよほど辞める人間が多いのだ。用意周到で拍子抜けした。私はPDFをデスクトップに保存した後、一旦パソコンを閉じた。そして、資源ごみの袋を持って玄関の扉を開いた。
お金が入っていないうちに前言撤回!! ごめん!! 考え中!!