木星シャングリラ 前編
「よう、お前がこれから出撃する庭師か」
キクチが声のする方へ振り返ると、小太りの中年男が立っていた。頬もカーキのつなぎも、ところどころ黒く汚れている。ここの整備士だ。
「訓練ではどこまで行った?」
「カリストの手前まで」
「そうか」
木星を周回するガリレオ衛星を目印に、四つの区域に分かれている。カリスト、ガニメデ、エウロパ、イオ。訓練でカリストより先に行くことはなかった。
「プロメテウスは暑さには強いが寒さには弱い。間違ってもエウロパになんか撃つなよ」
冗談っぽく言いながら、整備士は指についたオイルを拭う。ひねりのないジョークだと、キクチは思った。
「わかってるよ」
プロメテウス。木星を整備するために開発された人工植物。数々の人間が死と引き換えに木星周辺を探索し、ついに居住化計画までこぎつけた。狭苦しいコロニーでの生活を余儀なくされてきた人類にとって、それは希望の光なのだ。無下にできるわけがない。
「俺たち庭師は希望を扱っているんだ。そんなヘマはしない」
機械類が多いせいか、コロニー内でも特にここは乾燥している。プロメテウス用の爆撃機をメンテナンスしているのだろう、ジジジッと火花が散る音がする。
「最近空賊が徘徊しているらしい。戦闘を想定して作っているわけではないから、くれぐれも気を付けてくれ」
「はいよ」
キクチはそういうと右手を上げ、格納庫に向かった。
「ジュピター・カプチーノにはなるなよ!」
ジュピター・カプチーノ。木星のもくず。背中に怒鳴る整備士を、キクチはお節介な男だと思った。
行きなれたカリストまでの道を飛び、ガニメデを過ぎると隕石は少なくなってきた。飛びやすいとはいえ、ここから先は本部と音声通信ができない区域に入る。信号でわかるのは大まかな位置と、生きているかどうかくらいだ。頼れるのはレーダーと、自分の腕のみ。
――とうとう、俺も兄貴のように。
8つ離れたキクチの兄も庭師だった。訓練では常にトップの成績。仲間からの信頼も厚かった彼は、見事プロメテウスを木星に着地させ、その帰りに信号が途絶えた。操縦桿を握る手が、皮手袋の中で湿っている。久しぶりに胸の高鳴りというのを感じた。そういえば兄も出撃前夜、子どもみたいに感情が顔に表れていた。コロニー内で見られでもしたら、ミュージック中毒者と思われてしまう。
隕石のない開けた空間に来た。遠くに木星が見える。写真でしか見たことのない星の存在感に、息を飲んだ。赤い縞模様の球体に、衛星たちがひれ伏しているようでもあった。
——あれが、木星。
突然、警報がけたたましく鳴った。何かが近づいてくる。キクチの目に、それの正体がはっきり映る。ミサイルだ。キクチはすぐに右下にダイブ気味に回避した。ミサイルは追ってくる。
——くそっ。
操縦桿を握る手に力が入る。こんなところでプロメテウスを落とすわけにはいかないのだ。主翼が右に傾く。横転する。警報がうるさい。操縦桿を手前に引く。訓練通り。右足でラダーペダルを踏む。敵の牙が迫る。追いつかれてしまう。キクチはスロットルを押し上げる。強い重力がのしかかってきた。右手と右足に力が入る。キクチは旋回する。
一瞬明るくなった。そのあと獰猛な追手の後ろ姿が見えた。間一髪、ミサイルは闇の彼方に消えて行った。
安堵したのも束の間、前方に星の群れが見える。キクチは岩石に紛れながら進み、再び開けた場所に出る。不審なものは見当たらない。ただ、違和感があった。機内にノイズ音。音声通信機がONになっている。
「誰だ」
返事はない。が、そこから流れてきたのは予想もしないものだった。機内に打楽器の音が規則規則正しく響く。
——これは。
次にシンバルがリズムを刻み、重低音も加わり、甘いギター音が流れてきた。
——ミュージック?
『シャングリラ、幸せだって叫んでくれよ』
『ときには僕の胸で泣いてくれよ』
『シャングリラ、夢の中でさえうまく笑えない君のこと』
『ダメな人って叱りながら、愛していたい』
アート法で禁止されている、音のドラッグ。うっかりそれに気を取られてしまった。目の前に巨大な岩石が立ちはだかっている。とっさに右に避けた。しかし避けきれなかった。左のエンジンをこすったようだ。キクチは呆然と目の前の光景を見る。白い星。キクチはそのまま氷の惑星、エウロパに吸い込まれていった。
作中に出てきた楽曲
チャットモンチー「シャングリラ」
お金が入っていないうちに前言撤回!! ごめん!! 考え中!!