サイダーハート
このイラストは、みんなのフォトギャラリーから使わせてもらっています。ありがとうございます。
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金曜日の夜だというのに一人寂しく居酒屋で酒を飲んでいるのは、馬鹿な男のせいだった。結婚を考えていた男が別の女のところへ逃げたのだ。収入が良くても愛嬌がなきゃ、家事が出来なきゃ、価値観が……。結局男なんて、言い訳をするだけして自由を欲しがる生き物なのだ。
ジョッキに残ったビールを飲み干すと、ちょうど店主がこちらにやって来たので串だけになった焼き鳥の皿と一緒に渡す。それからなんとなく社用のスマホをカバンからとりだして見てみると、着信があった。そんな予感はしていた。技術部と安全衛生部の担当者から一件ずつ。めんどくさい。カバンの中にまたしまうと、ちびちびとタコまんまの醤油漬けをつまみながら猪口に口を付けた。
「いらっしゃい、空いている席へどうぞ」
引き戸が開いたのに気が付いた店主が、立っている男に言う。童顔で十代にも見えるが、おそらく二十代前半だろう。男は私の左に席を一つ開けて座ると、メニューを開いた。おすすめの一覧と見比べて吟味している。
「ビールと、タコまんまください」
男が顔を上げて言うと、店主は申し訳なさそうに頭の後ろを掻いた。
「すみません、ちょうどなくなってしまいまして」
「ごめんね。多分あたしが食べたので最後だったみたい」
男はこちらを向く。そういう顔をしていた訳ではないが、心なしか残念そうに見えた。
「そうですか」
「それにしても、すいぶん渋いものを頼むわね。学生さん?」
気まずい空気を何とかしようと、世間話を振ってみる。男は少し驚いたような顔をした。
「いえ」
「あら、じゃあ社会人なんだ」
男は顔をこわばらせて少しのあいだ固まった。変なことでも聞いただろうか。そう思っていると男は観念したようにうつむいた。
「いえ……契約社員だったんですけど、今日で更新切れちゃって。また仕事探さないと」
ますます気まずくなってしまった。全て裏目に出ている。
「なんか、悪いこと聞いちゃった?」
男は困ったように眉を下げて笑う。悪いことを聞いてしまった。このままだと後味が悪い。
「うーん、わかった。退職祝いってことで、おごってあげる」
「そんな、悪いですよ」
「いいから。好きなもの頼みな」
これがリクとの出会いだった。その場の空気を何とかしたかった、というよりも、私は男に捨てられた惨めさを金でもみ消したかっただけなのかもしれない。
その日はおごる代わりに連れ回した。リクは十個下の二十三歳で、私のことはマリコさんと呼んだ。最初はぎこちなかったが酒が進めば打ち解けられるものだ。不意にタコまんまのことを聞いいてみる。すると食べたことが無いらしく「ご飯ものだと思ってました」と言った。思わず笑って、ご飯には合うかもねと言うとリクは「そうですか」と言ったきり、タコまんまについては聞かなかった。
散々飲んだのにまだ酒を求めたのは、リクといて気が紛れたからだと思う。コンビニで缶ビールをカゴに入れると「飲みすぎじゃないですか?」と怪訝な顔をされたが気にせず、リクが選んだサイダーと一緒に会計した。
ラブホテルでさっとシャワーを浴びた後、コンビニで買った缶ビールを開けた。リクもベッドでサイダーを飲んでいる。痩せてはいたが、成人した男の身体だった。タオルを体に巻いたままベッドへ行き、不安げな顔をするリクの頬にキスをする。
「怖がらないでよ」
もう一度同じところにキスをする。髪は同じシャンプーの匂いがして、肩や二の腕はひんやりしていた。今度は唇を重ねる。見つめあう。
「ダメな男」
「そうですね」
リクは節目になる。再びキスをする。
「ため口でいいって」
「わかった」
何度か繰り返しているうちに、急に正気が惨めさを連れてやって来た。顔を逸らす。
「三十過ぎたオバサンにこんなところ連れられて、嫌でしょう」
自嘲気味に言うと、リクは首を横に振る。
「そんなことないです。マリコさんは美人ですよ」
「また敬語にもどった」
「ごめん」
リクにキスをされ、そのまま押し倒された。されたというよりもさせたのだろう。こういうところがダメなのだろうか。ぼんやりした頭の中に浮かんできたが、億劫になって考えるのをやめた。
今日も残業だった。私は火星開発の会社に勤めている。国に補助金を申請したり、社内の各部署の要望を取りまとめたり費用の調整をしたりするが主な仕事だ。今時期はちょうど労働者の契約更新が切れる時期で忙しい。人を新たに補充するとなれば労働者を火星に送らなければならず、それには必ず費用が発生する。あいつらはここぞと言わんばかりに予算の要求をしてくるのだ。安全衛生部は作業着やら食料やらを多く見積もって送ってくるし、技術部は製品開発を進めたいがために重機の追加をせびってくる。追加が決まれば当然開発費を余分にふんだくるだろう。労働管理部は労働者に向けた教育訓練と給付金で頭がいっぱいだ。
うんざりする要求をかいくぐりながら、何とか日付が変わる前に退社できた。ビールでも買って帰ろうと自宅近くのコンビニに行くと、リクが入口近くで座っているのが見えた。あれから一カ月ぶりである。
「どうしたの、その荷物」
横にリュックとボストンバッグが置いてある。
「家、追い出されちゃって」
アスファルトの一点を見つめながら続ける。
「冷蔵庫も電子レンジも全部売ったけど、スマホ代にすらなりませんでした」
「これから、実家に帰るの?」
「いえ、そのつもりは。遠いし、親といるの嫌なんで。これから何とかします」
何とかするとはいえ、何とかできなさそうな感じだった。気の毒二割、前の悪酔いに付き合わせた後ろめたさ四割、金を払ってでも家事をしてくれる人が欲しい、三割。女一人で生きるのに充分な金を持つと、面倒を金で何とかしたくなる。よくない癖だ。
「わかった。うちに来たら?」
「え?」
「仕事が決まるまで、うちで寝泊まりしなよってこと」
「いいんですか?」
「家事は全部してもらうけど。まあ、家とごはんとスマホ代くらいは持つわ」
リクは立ち上がると、申し訳なさそうに深々と頭を下げた。
「すみません、これからよろしくお願いします」
「いいから。じゃ、あたしビール買うから待ってて」
そう言って私はコンビニに入って冷蔵の棚を目指した。そういえば、あと一割足りなかった。残りの一割は、きっとうんざりする夜を誰かと過ごしたかったから、だと思う。
リクを泊めるようになって二週間が経った。積極的に職探しをしているらしく、朝一緒に家を出ることもしばしばあった。私の方も火労(火星労働者の略で、きつい仕事の代名詞として使われている)の受け入れが始まって、忙しくなってきた。
リクは私が帰ってくるまで酒を飲まず、代わりいつもサイダーを飲んでいた。エナジードリンクなんかよりも好物らしい。それを横目にビールを飲みながら晩飯を食べていると、社用のスマホに電話がかかってきた。労働管理部からだ。
「夜遅くにすみません。実は研修中なんですが辞めたいという作業者がいて……研修期間中の給料はどうしたらいいんでしょうか?」
ほとほと困り果てたと言う様子だった。働いた分の金を出せとでも言われたのだろうか。
「研修段階でも支払うのは、あくまでも頭金みたいなものよ。給料じゃなくて給付金の一種。作業に従事していない以上、支払うことなんて出来ないわ」
火労者には給料ではなく給付金という形で労働の対価を支払っている。税金はほぼ免除されるし、金額もいい。ただ危険が多いため、命を落とすことも少なくなかった。火労者の労災についての対応は淡泊なもので、遺体を地球へ送り、葬儀にかかった費用の半分を負担するという程度。訴訟をしても無駄。給付金と言うが、要は死ぬのを見越して賠償金を前払いしているみたいなものだ。
「それじゃ、説明お願いね」
電話を切り、ため息をつく。火労に来る人間なんて、大抵借金を作って返せなくなったやつらばかりだ。いちいち付き合ってられない。
「大変ですね」
リクが言う。もう食事を済ませていて、ベッドに座っていた。
「まあ、仕事だからね」
冷蔵庫から缶ビールを二本取り出し、一本開ける。
「飲みなよ」
サイダーのペットボトルを取り上げ、ビールを渡す。
「ありがとうございます」
「ため口でいいって言ってるのに」
隣に座って、缶ビールを飲む。
「ねえ。次、何の仕事するの?」
リクの顔を覗き込む。黒目が大きくて、まつ毛が長い。
「まだ、決まったわけじゃなくて……」
「いいじゃない、教えてくれたって」
眉を下げて笑うリクに、思わずキスをする。困った顔を見ると、つい意地悪をしたくなる。
「言えない仕事なわけ?」
そう迫ってみるが、キスを続けるうちにどうでもよくなってくる。いつの間にかこの男に懐柔される。情けない。リクと過ごす夜は愚かで心地よかった。
ある程度仕事が落ち着いてきた。今日は定時近くに上がれそうだ。
〈少し早めに帰れそう。洋食が食べたい〉
リクにメッセージを送ると、すぐに返ってきた。あっちも早く終わったのだろうか。
〈何でもいい?〉
うん、と送ったすぐ後に、少し前に買った日本酒のことを思い出す。
〈あ、でも日本酒飲むからなー〉
〈そっか。わかった〉
スマホを見ているところに、上司から予算書について呼ばれて席を立った。内容は大したものではない。すぐに仕事を済ませてさっさと上がった。
家に着くと部屋中にいい匂いが広がっていた。ちょうどできた頃らしく、リクが二人分の皿をテーブルに並べている。夕飯はハンバーグだった。大根おろしと刻んだ大葉が乗っていて、なるほど確かに洋食だけど日本酒に合いそうだと思った。
席についてさっそく箸で割ってみると、肉汁があふれ出す。口に運んで噛めば玉ねぎと肉の甘みが広がり、おろしポン酢でいただくと後味がさっぱりとする。冷えた純米酒とよく合っていた。
「おいしい」
ここ最近仕事に追われていて、食べ物を味わうことすら忘れていた。帰宅したら誰かが待っていてくれる。同じ時間に同じものを頬張る。穏やかに流れる時間に安堵していた。
「リクがいると助かるわ。ずっといればいいのに」
ぐいっとコップの酒を飲み干す。
「ありがとうございます」
「何度言ったらわかるの。ため口でいいって」
相変わらずリクは敬語が抜けなかった。ダメになり切れない男なんだと思う。そんなリクが、嫌いではなかった。
「うん」
またいつもみたいに困ったように笑いながら、リクは頷いた。
今日も残業せずに帰れる予定だったが、技術部と安全衛生部に呼び止められて遅くなってしまった。予算案の修正をせがまれたのを何とか抜け出し、コンビニでリクのサイダーを買ってから帰宅した。
家にリクはいなかった。電気を付けるとローテーブルにメモと厚みのある封筒があった。メモには〈お世話になりました〉とだけ書かれていて、封筒には現金が入っていた。スマホ代にしては、少し多い金額である。
「そうか、もう会えないのか」
ビールを取り出そうと冷蔵庫を開ける。中に器に盛られた肉じゃがと小鍋に入った味噌汁があった。私はそれを温めて、その間に会社のノートパソコンを開いた。
「まあ、いいけど」
ビールはやめてサイダーを開ける。サイダーなんて何年ぶりだろうか。飲むと透明な甘味が口の中で弾けて消えた。久しぶりに飲んでみると、悪くない。
「めんどくさ」
カバンから安全衛生部と技術部の要望書を取り出し、予算案のファイルを開く。安全衛生費、昨対二パーセント増、自走式砕石機2台追加……。
お金が入っていないうちに前言撤回!! ごめん!! 考え中!!