誰より桜を見ているわたしに言わせれば
わたしは誰よりも桜を見ていると思う。
なんの自慢? と思われそうな言い草だが、自慢じゃないけどそうなのだ。
もちろん、仕事で桜の管理をしてらっしゃる庭師のかたにはかなわないが、一般人のなかではめっちゃ桜ウォッチャーだと思う。
言っとくけど「桜の花」ではない。
そしてわたしは詳しいマニアでもない。
生活圏にある桜の木。その遠くから、そしてすぐそばで。みつければいつも観察する。
クルマでよく通る道にはお気に入りの古い桜の大木があり、休日には川沿いの桜堤をウォーキングする。
子どもの頃思ったのだ。
桜って、花が終わると存在が消える。お花見の時は皆が取り囲んでいたのに、散ったあとは見向きもしないなと。
寒さがゆるみ始め、卒業だ入学だという時期になると、気象予報の画面に桜前線が登場し、
大人はお花見の相談をし、「桜は日本人の心」とか言い出す人が必ず身近にひとりはいて、
スーパーには桜色のパンとかスイーツが並び、一気に盛り上がる。
ところがその数日後、強風や雨にさらされ花はすべて散り、お祭り騒ぎはあっけなく終了。
ただ、その最後の姿ですら、「花吹雪」に始まり「花筏」「花筵」など美しい言葉で惜しむように鑑賞してきた文化がある。
しかしやはり、見ているのは「花」だ。
真夏の桜並木の下で、青々とした葉が茂る樹形を見比べるのは爽快だ。
葉を落とし、北風のなか裸で直立するような姿や、すべての枝の先端まで均等にうっすら粉砂糖がかかっているような雪持ちの老木も、凜としていて惹きつけられる。
ピンク色の可愛らしい花がすべてではない。
2020年の春を覚えている。
不要不急の外出が憚られた頃。桜は咲いていた。
「コロナ?知らんがな。こっちはそれどころじゃないし」
と言わんばかりに、ただ自分の仕事に邁進している風情で咲き誇っていた。
今年もまた、開花宣言の翌週あたりには多くの人の脳裡から存在を消し始めるだろう。
それが風物詩というものだとは思う。