大人になったと感じるこの頃
こんにちはQoiQoiの吉次匠生です。
今回はここ数年に自分の身に起きたことから書いていきます。
僕は、実家が福岡県北九州市にあり、18歳の時に上京してきました。
学生の時は年に一回ぐらいは実家に帰ってましたが、コロナが広がってからは数年実家に帰ることはありませんでした。
しかし、ここ数年は半年に一回ぐらい地元に帰っています。
理由としては、単なる帰省ではなく、祖父母の不幸が重なったことが理由です。2021 年に母方の祖母が亡くなり昨年父方の祖父がなくなりました。
喪失感
僕は小学校から高校まで祖父母の家で生活していました。仕事で親が家にいない間、いわば親代わりに僕を育ててくれました。
最初に祖母が亡くなってから、葬儀や法事や四十九日などで実家に帰るたび昔よく怒られたことや、遊んでもらったことや、小遣いをもらったことなどたくさんの思い出が頭をよぎります。
上京して15年ぐらい経つから、当然街並みは僕が小さい時の街並みと変化しているけど、それ以上に景色に昔の思い出や記憶の膜がかかり色褪せている感じがして、地元に帰ってきた感じがしませんでした。
ありきたりな表現で言うと、心にぽっかりと穴が空いている感覚でした。
自分の時代
祖母が亡くなって、3年が経つので祖母の家の取り壊しが決まりました。
先日、祖母の家が無くなると決まって、家の物の整理のために再び実家に帰ることになりました。
その時遺品の整理を母がしている中でボソッと言ったことばが印象に残っています。
「ばあちゃんの写真の整理するのが大変だった。こんなに大変な思いをあんたがするならと思って、私の卒業アルバムや若い時の写真もだいぶん処分したよ」
また、祖父の墓の段取りの話を父としている時の言葉も印象に残っています。
「墓は墓終いしようと思ってる。墓のある佐賀は遠いし、お前も今後ずっと東京やし、最終的にはお前が管理することになるから、その度にこっちに帰ってきよったら大変だし迷惑かけるわけにはいかんからな」
当たり前だけど、今まで祖父母が亡くなる前は家の権利や先祖の世話や親戚付き合いなど、家系の世話は祖父母や両親がしていました。それが自分に管理して行かないといけない番が回ってきたと感じた瞬間「あぁ自分もそんな歳か。大人になったな」と感じました。
死によって生と死を感じる。
祖父母の死によって、自分の番が回ってきていることを感じたとともに、色々な後始末に追われている親の死というものも感じました。
当たり前だけど、会うたびにシワが増えてるな。
あと、この人と何回会えるのだろう?
何回会話ができるんだろう?
今のうちに受け取っておかないといけないものがある気がする。
今回気がついたことは死は日常の時間を可視化すると言うことです。
日々東京の生活で時間に追われる毎日を過ごしてきて、気づいたら30を過ぎていましたが、ふっと立ち止まってみると、本当に大切だったものまで見過ごしていたような気がします。
今回、上演する場所である東長寺は奇しくもお寺であり、文由閣のすぐそばの本堂の地下にはたくさんの納骨がされています。
自分の身内や身の回りの死ではないですが、場所の空気感なども感じながら作品を楽しんでいただけたら幸いです。
観劇後、新宿という都会のど真ん中で微かな「死」の香りを嗅ぎながら「今生きている私」を少しだけでも見つめながら、駅までの帰り道を歩いていけるような作品にしたいと思っております。
QoiQoi 吉次
チケット予約
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