吾輩は犬である。
吾輩は犬である。名前はまだ無い。仲間もいない。
数年前、この村に捨てられたことだけ覚えている。
吾輩は捨て犬である。名前はまだ無い。
他の犬になめられないように、自分のことを『吾輩』と呼んでいる。
この村に捨てられて数年が経つが、いつも一匹ぽっち。朝起きて村を散歩して、疲れたらどこかの家の残飯を食べ、そして寝る。その繰り返し。
昔は仲間を作る努力もした。
犬たちが多く集まってる所へ出掛けたりした。
でもみんなに避けられる。
「汚い!向こうへ行け!」なんて言われることも。
吾輩はいつも一匹ぽっちである。
たまに、ちゃんと声が出るのか怖くなり、無闇に吠えたりする。すると「うるさい!」と人間に水をかけられる。
そんな吾輩にも一つだけ楽しみがある。
たまにすれ違う綺麗な犬。
吾輩とは比べ物にならないくらい美しい毛並み。顔立ち。
村でも人気の犬。名前は『花』。名前通りの美しさ。
飼い主も「どうだ!美しいだろ!」と言わんばかりに散歩をしている。
そんな花とすれ違うのが、吾輩の唯一の楽しみ。
3日に一度の楽しみ。
本当は散歩の道順も分かっているから、毎日だって会えるのだが、さすがに気持ち悪がられるだろう。
今日も吾輩は花と会えた。
今日はニコッと微笑んでくれた気がした。
吾輩の勘違いだろうか。
うん、きっとそうだ。こんな捨て犬に笑顔などあり得ない。
そんな事より、今日も花とすれ違えただけで嬉しい。
3日後。じゃなく2日後。
3日待てなくて会いに来てしまった。情けない。
あの笑顔は今日もあるのだろうか?それともただの勘違いか。
暫くして飼い主に連れられた花の姿が見えた。
今日も美しい。遠くからでも分かる美しさ。
どんどん近づいてくる。
吾輩は、花の笑顔を確認しようとするが、緊張で顔を見れない。もし顔を見て笑顔じゃなかったら、と思うと怖くて仕方がない。
花が吾輩の横を通り過ぎようとする。やっぱり顔は見れない。
「よく会いますね」
その時、綺麗な声が吾輩の鼓膜を刺激した。
いきなりの事で理解できず、声の方を見ると、もう一度。
「よく会いますよね」
花が話しかけてきている。
『え!ああ、そうですかね?』
突然のことでとぼけてしまった。
ああ、格好悪い。
「名前は何ていうの?」
また、話しかけてきた。
『え!な、名前はまだ無いんです』
「ええー、またまた〜」
冗談だと思ったのか、花は笑っている。
綺麗な笑顔が咲いている。
『いい天気ですね』
今度は吾輩から話しかけてみたが、失敗。
空は雲だらけ。今にも雨が降ってきそうな曇天。
「おもしろいですね」
そう言って花はまた笑い出した。
吾輩もつられて照れ笑い。
すると飼い主がこんな捨て犬に近付くんじゃないとばかりに花を引っ張る。
花は行ってしまった。
「またね」
と言ってくれた。ような気がした。
こんな事があるなんて。
吾輩は天にも昇る気持ちで花を見送った。
姿が見えなくなっても、見送った。
吾輩は、3日待てず、次の日に会いに行った。
花は来なかった…。
それから次の日も、その次の日も花は来なかった。
実はあの日、吾輩と話してるところを他の犬に見られていたらしい。
花は吾輩と話した事で、からかわれたのだとか。
「お前も汚くなるぞー」
「お前も捨てられたいのか?」と。
花はそれ以来、いつもの道順を拒んだらしい。
結局吾輩は一匹ぽっちである。
吾輩はこの村を出ることにした。
もうなんの未練もない。
吾輩は歩いた。行く先も決めずに歩き続けた。
気付けば、川にいた。
飛び込もうと思っていたのだろうか。
ふと川面を見ると、吾輩の顔が映っている。
吾輩は泣いていた。
吾輩のみじめで汚い泣き顔が、川面に漂う波によって、よけいにぐちゃぐちゃにされた。
吾輩は再びあてもなく歩き出した。
川に飛び込む勇気も、崖から飛び降りる勇気もない。
ただ死ぬまで歩こう、と決めたのである。
吾輩はとにかく歩いた。
三日三晩飲まず食わず眠らず、ただただ歩き続けた。
なかなか死ねないもんだ。
自分の身体に感心する。
ようやく眠くなってきた。
いよいよか。と覚悟を決めた時、一人の人間がやって来た。
奇妙な格好をした人間は、我輩に話しかけてきた。
こんなみすぼらしい吾輩に。
「一緒に旅をしないか?」と。
吾輩は驚いた。こんな捨て犬にそんな言葉をかけてくれるなんて。
初めて人に必要とされた。
しかも、お腰につけたお団子をくれた。
嬉しい。
この人間についていこう。
日本一と書かれた旗がちょっと恥ずかしいが。
吾輩は犬である。名前はまだ無い。
でも仲間は…、いる。
むかしむかしのお話でした。