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"デザイン"とかいう曖昧な新興宗教で身を滅ぼしている

デザインを続ければ続けるほど、デザインが分からなくなっていくという話。私は、以下のような状態のインハウスUIデザイナー。デザイナー歴丸9年、10年目の苦悩。


"デザイン"を取り巻く環境の変化

よくビジネスのマネジメント研修で使われる例えとして「レンガ積み」の話があると思う。これは、デザインについてざっくり話す時の例えとしても使える。

「レンガ積み」の話とは

よく知られている話だと思うが、一応概要を書く。

昔々ある所にレンガを積むAさんとBさんがいた。
Aさんに何をしているのかと聞くと「レンガを積んでいるのさ」と答える。
Bさんに何をしているのかと聞くと「橋を作っているのさ」と答える。
AさんよりBさんの方がモチベーションが上がりやすいですよね。

聞いた話のうろおぼえ

なぜ「レンガ積み」が存在するのか?

ここからは私の持論だが、そもそも”なぜ”「レンガ積み」という仕事が発生するのだろうか?ここでは、事業に必要な工程を分けて、1人に単純な作業として与えて効率的に物を生産するため。と考える。

これもまた、よく知られた話だが、「フォード生産方式」では、製造工程を細分化し、ベルトコンベヤー上の流れ作業で生産を行う。これにより、作業が単純化して熟練工が不要となった。

なぜ「フォード生産方式」が導入されたのかといえば、技術革新のせいである。より高度に、より複雑になっていく諸問題をクリアするには、人間一人に与える課題は単純な方が良い。だから、近現代において労働者は、たいていの場合「レンガ積み」をすることになる。

まとめ:「生産の都合」でモノや仕事が設計される


橋が売れないなら、買わせれば良いじゃない。

フォード車は黒一色の同じ形の車を量産することで、生産を効率化していた。しかし、需要が供給を下回る時代が訪れる。(たぶん、世界恐慌とタイミングは同じだと思う。)

そこで、GM社はカラバリを増やして顧客の購買意欲を煽り売上を伸ばした。「デザインの力だ!」といえる。しかし、必要の無いものまで消費者に買わせて利益をあげるためのデザインは、資本家のためのデザインである。

あえてイジらせていただくが、端末ケーブルがいつまでたってもLightning端子でTypeCの端子にならない、どこかの林檎のメーカーがあるが、他のデザインが優れていると言われているだけに「何で?」という意見をよく聞く。詳細な事情は知らないが、いつの時代も、金を出している人に得をさせ、守ることはデザインにとって軽んじられない重要仕事であると思う。

p.s.なんか、そういう映画ありましたよね?ボールペンを私に売りなさい的なやつ。この話であってる?

まとめ:「生産"者"の都合」でモノや仕事が設計される


人間が橋を渡れなくなった

コンピューターの登場によって、橋はもはや物理世界ではなく、バーチャルな世界に架けられるようになった。(80年代以降)

コンピューターの中で何かを操作するのは人間にとって難しい。自動車のハンドルのように直感的ではないからだ。売れるか以前に、生活者に合わせなくては、そもそも製品を使うことさえできなくなった

そこで人間中心設計が注目された。誰のためのデザインの初版1988年

まとめ:「”人間”の都合で作る」でモノや仕事が設計される


橋は存在して良いのか?

90年代〜現在において、SDGs(人間以外も含め、すべての利害関係者の利益にもなるようにしなさいというお題目)は、生産者の責任となった。

つまり、そこに橋が存在することで、その街は豊かになるのか?橋をつくることで環境を脅かすことはないか?という所まで、デザインは考える必要が出てきた。

しかも、橋が掛かっている環境は、日々刻々と変化し、未来を予測するための材料も不足しており、橋を製造・評価する人も多様になり…という。どこから手をつけりゃ良いんだ?という状況。※VUCA(変動・不確実・複雑・曖昧)と言ったりするらしい。

まとめ:「”すべての利害関係者”の都合」でモノや仕事が設計される


全体像

原始時代 生活者の都合で作る
自分/ごく限られたコミュニティのための道具を自分で作る

職人の時代(オーダーメイドではある)

産業革命〜 生産の都合で作る
例:フォード車は黒一色で効率化した(規格化・標準化)

世界恐慌〜 生産"者"のビジネス的な都合
例:GM社はカラバリを増やして顧客の購買意欲を煽り売上を伸ばした

コンピューターの登場以後〜 ”人間”の都合で作る
例:誰のためのデザイン1988年初版(原子力発電所が人為的なミスで事故を起こした事例などを掲載)
ユーザーが特定の機能を利用できるかにフォーカスを絞っていた
人間の性能の限界 社会が人間の性能以上に発達してしまった

90年代〜 ”すべての利害関係者”の都合で作る
当然、ビジネスとして持続可能でなければならない
生産工程も効率的でならねばならない
しかもVUCA(変動・不確実・複雑・曖昧)な社会である


"デザイン"の目覚め

人間は自らをデザインし続ける

私は高校時代に先生と議論したことを覚えている。「人間はいつからデザインをしていたか?」についてである。

教科書的には、産業革命によって工場生産が始まってからである。というのが答えだ。しかし、デザインをデザインと意識し始めたのが、「俺は何を作ってるか知らねぇけど、レンガを積むとオマンマが食えるんだ。」という労働様式が一般化した時期だったというだけで、もともと人間は橋を作っていたはずだ。だから私は、原始時代から人はデザインをしていた。それをデザインと呼ばなかっただけで。という旨の回答をした。

参考:

"技術は人間によって発明されたのではない。むしろその逆である。"
ジャン・フランソワ・リオタール
中略
よく言われることですが、人の知能が発達したことで道具が作られるようになったのではなく、道具を作ることで人の知能は発達したのです。人間が道具を作ったのではなく、道具が人間を作ったのです。
中略
道具というものが、世界との関わり方、世界というものに対する我々の認識を鏡のように反映するなら、そのインターフェースこそが、我々にとっての世界であり、同時に我々自身の投影なのです。

ソシオメディア | OOUI の目当て Interface


人間の"デザイン"を守る存在

先ほどの橋の話で書いたように、昔は村のみんなで創意工夫をして吊り橋でも何でも”適当”に拵えていたのに、レンガ作りの橋を作ることで、労働者はモチベーションをなくし、橋を渡る人は自分でデザインしていない橋について愛着を持たなくなっただろう。社会の変化は、人間から原始的なデザインを奪ってしまった。

そこで問題提起をしたのが、ウイリアム・モリス。モリスは原始に還ろうと言ったが、社会の変化と逆行する運動は上手くいかなかった。しかし、あらゆる人が、人間から取り上げられてしまったデザインを見直し、近代社会に応じたデザインを始めた。これが、我々の直接の先祖、近代における「デザイナー」である。


人間だけではない

しかし、ここまで書いてきたように、守るべきは"人間"だけではない。よく、「デザイナーは人間中心設計をするものだ」という話を見るが、結果的にそういうケースが多いというだけで、イコールじゃない。

我々がデザインについて話すとき、
議論の本当の目的は形(問題に対する解決のこと)だけに限られず、
形とそのコンテクスト(文脈・問題)から生まれた調和の取れた全体、
すなわちアンサンブルも含まれている。

1964年 クリストファー・アレグサンダー  形の合成に関するノートより

全体の調和を取る中で、抜けがちな"人間"の領域を補う機会が多いというだけ。そうでなければ、世界屈指のAppleのデザイナーを「デザイナー」と呼べなくなってしまう。我々が目指すべきは、"人間"ではなく"調和"だ。


伝統の喪失

自分の村で橋を架けようというとき、その村に前例があれば、その前例に従うだろう。また、何年〜何十年後に橋を架ける時もその前例に従うだろう。余計なことをして橋が落ちるくらいなら、その方が良い。これを「固い伝統が守られている状態の文化」とする。

しかし、ここまで書いてきたように、レンガの橋を始めて作る時にはデザインが必要だし、ビジネスのために様々な形の橋を架けるには、毎回デザインが必要だ。伝統は伝統、新しくするなら新しくすると意思決定をしているのが今の社会。これを「自覚している文化」とする。

自覚している文化には、明確な意思決定が必要だ。その決定をするのは、大抵の場合デザイナーではない。デザイナーは決定者に、今何を天秤に掛けているのかを、自覚させなければならないだろう。

伝統がある世界であれば、「無用な変化をさせない」ということができたが、近現代においてそれは無理な話だ。常に天秤の上の要素が変わり続ける。一体今、我々は何を測っているんだ?


"デザイン"の困難

デザインの考慮事項の多さ

職人教育(工芸)的なアプローチもあれば、人間工学、心理学…などなどあらゆる分野が必要だ。モノづくりと"人間"に関する、あらゆる分野を集結しなければ、近現代における"橋"の設計はできない。皆、「デザイン」と軽々しく口にしているが、分野が広すぎて、抽象的すぎて、何も言っていないのと同じではないか。

実物を実際の世界に置いて、それが有効かどうか見るか、自分の想像力を活かして、それが有効かどうかを図面から予測するかをせなければならない。
けれども、形の拠所(よりどころ)と要求の間には、なんら一般的で象徴的な連結手段がなく、したがって、形を象徴的に検査する方法がない。

1964年 クリストファー・アレグサンダー  形の合成に関するノートより

形態はそのデザインに関連して知られているすべての要素を反映すべきだと分かっていても、大抵のデザイナーは、偶然手に入った情報だけを入念にしらべて、超特急の困難に出会えば、コンサルタントに相談し、そう行き当たりばったり選んだ情報を形にするか、さもなくば、彼の頭の中の芸術家のアトリエででっち上げるのである。

1964年 クリストファー・アレグサンダー  形の合成に関するノートより


デザインは宗教化する

「デザイナーとして、これは常識でしょう。」
「デザイナーとは、こういうものだ。」

こういう発言を聞くたびに、「根拠は?」と心の中でつぶやく。おそらく、そこに合理性はないのだ。ただ、職人的な勘、(歴史は短いながらも)近代における職人としてのデザイナーの伝統がそうさせるのだ。

したがって、同じ分野のデザイナー同士に共通認識があるわけでは無い。だから、揉める。派閥ができる。私は合理性のない師匠に、付いていくことはできなかったが、付いていく人もいる。ほぼ宗教だ。

しかし、その宗教を否定するわけにもいかない。デザイナーは感覚・情緒的な話を無視して、合理的・機能的な話だけをしていれば良いのか?というと違うだろう。私もまた、自分で自分一人のための、宗教をつくるしかない。デザイナーでいるかぎり。(私が宗教にどちらかというと否定的なのも、近代という宗教に入信しているためである。)


デザイナー星人

「私はデザイナーなので、これを許容できません。」

こういう発言を聞くたびに、私はデザイナーなんて、この星にいらないんじゃ無いかと思ってしまう。調和を目指すべきであるのに、デザイナーのエゴを通すのは違うと思うのだ。

「我々はデザイナーだ。」と宣言しても、何も解決しない。


しかし現状、感覚的な話をするときは、こう説明するしかできない。
「デザイナーとして、これは許容できない。」


追記:まあ、こういう状況になるのは、文脈を理解できてないのが主な要因ですね。しかし、文脈を構成する要素が多くて詰んでて、しんどいのでつらつら書いたのさ。明日もユーザーリサーチよ、気合いじゃ。

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