6-03 「印刷された音楽と、手紙のような音楽について」
連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。前回は親指P「切り離された音」でした。
5、6巡目は「前回の本文中の一文を冒頭の一文にする」というルールで描いています。
【杣道に関して】https://note.com/somamichi_center
【前回までの杣道】
6-02 親指P「切り離された音」https://note.com/kantkantkant/n/nadbd7c917fba?magazine_key=me545d5dc684e
6-01 「都市の息づかい」Ren Honnma https://note.com/nulaff/n/ndf8ee294b04e?nt=magazine_mailer-2021-07-28
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楽譜は音楽(音の連なりの秩序)を成立させる、さまざまな要素(音の高低、強弱、長短、連なりのリズム等々)に分解し、記譜したものだ。その意味で音楽を再生させるための録音装置でもあるだろう。では、録音装置と楽譜の違いはどこにあるのだろう。
例えば、DAW(Digital Audio Workstation)技術が現実の楽器と見紛うまでのエミュレートを可能にし、安価なソフトウェアとして広く膾炙している現代においては、音楽のあらゆる要素が「記譜可能」な条件を満たしていると見ることもできるだろう。
一般家庭にあるノートパソコンで、誰もがピッチ、テンポや音価を自在に編集し、極めて厳密な楽譜を成立させられる。マーケットには古楽器やオーケストラ、時代の名器、あるいは破壊的なノイズやグラニュラーシンセシスに至る、古今東西の楽音が網羅されている。VOCALOIDに代表されるボーカルソフトには、フォルマントや歌声の感情を模した機能まで搭載されている。楽曲の音域や音響にも細かな手入れをすれば、出力された音の風合いまで決めることだって可能だ。鄙びたジュークボックスから響いてきそうなチープで歪んだ音にすることもできる。大聖堂で開かれるオーケストラのようなダイナミックな音に仕上げることもできる。今やアーティストは技術的な制約なくあらゆる音楽を模することができるし、さながら出版物の編集のように音楽を静的に組み立てることだってできるのだ。
SpotifyやApple Musicを筆頭とする音楽配信サービスは、商業音楽の流通のルールを大きく様変わりさせた。それだけではなく、彼らは膨大なデータを元に「聴衆に望まれている音楽」の輪郭を素描し始めている。AIによって選別された心地よい音楽がパッケージされ、各々のリスナーの好みに合わせて配信される仕組みが完成されつつある。記譜と編集が容易で、同時にそれだけ代替可能な音楽が、私たちの周りを無数に渦巻いている。このように敷衍してみると、DAWや配信サービスといった技術進展を、音楽史における一種の「印刷革命」になぞらえることもできるのではないだろうか。
現代では楽譜の形式性を拡張した「印刷された音楽」が、市場最適化された形で私たちの耳元に届いている。では当初の問いをアップデートし、このように置き換えてみよう。「印刷された音楽」に対置されるべき、というより排反する概念として置かれるべき録音芸術とはどのようなものだろうか。
ここで、即興ギタリストであるDerek Baileyの遺作『Carpal Tunnel』(Tzadik/2005)を紹介したい。Baileyはフリーフォームな演奏を持ち味とし、John Zornや灰野敬二などの共演歴で知られる。いわば音楽的なイディオムからの逸脱を追究したギタリストの嚆矢とも言えるが、最晩年の彼は手根管症候群(Carpal Tunnel)に苦しんでいた。病に冒された両手は痺れ、爪の先まで痛みに支配される。押弦もストロークもままならない。すでに、奔放なインプロヴィゼーションはできなくなっていた。ギタリストにとっては呪いとも言えそうな症状が進行するなかで、Baileyは決意する。老いて震え、病に麻痺した自らの手で弾くギターを記録に遺すこと。不随意なノイズや死の気配を感じさせる遺書を音盤に刻むこと。
アルバムトラックは(冒頭曲を除いた全てが)「After n Weeks(第n週)」という形式で経時的に併記されている。いずれもメロディやコードもない。意味や意匠も読み取れない。録音され、剥き出しになったのは彼の麻痺した手、その手が刻みつけるギターの振動だけである。そこには筆致だけが、あるいはストロークの形跡だけが刻みつけられている。このような形容が許されるのならば、それは死にゆく人が書く「手紙のような音楽」である。
記譜と形式化を経て「印刷された音楽」は、市場の中で永遠の生命を欲している。他方で、「手紙のような音楽」には一回性の物語と、来たるべき死が録音されている。それは本来的にmortalなものであることが、録音物それ自体によって自覚されている。僕が「手紙のような音楽」を聴く時、否、触れる時、そこには誰かが独り曲想を練る夜が透けている。汗ばむ演奏と拍手喝采、ないし沈痛な演奏と静謐な空間がある。そして、軽妙な/たどたどしい/血の滲むような…ありとあらゆる筆跡を感じ取ることができるのだ。
(付記)
この対置はしかし、形式的な言葉遊びに過ぎないのかもしれない。先に挙げた作品も、本当の意味でのライヴ録音ではないだろうし、当然ある程度のポストプロダクションも為されている。その楽曲を、形式化され「印刷」された音楽とするのか、一度きりしたためた「手紙」と見るべきなのか。例えば電子的にサウンドを生成し、そのテクスチャー(肌理)を審美的に取り扱うエレクトロニックミュージックであれば、その境目はより曖昧になるだろう。明瞭な回答を出せるものではない。けれど、そこに手紙的なものを見出せないのならば、やはり音楽を聴く意味がないとも思う。ユマニスム的な結語ではあるが、音楽の本懐は人に囁きかけるものでなければならないと思うし、優れた録音芸術は明らかにそうした力を宿しているように思われるからだ。