摩耗を生きる
前回書いた記事の続編的な内容である。
一般的な物語等では、困難に負けず耐えてひたむきに努力することを美徳とすることが多いように思う。その結果成功することが多いだろう。
私はそれを不健康なことだと一蹴していた。しかし今考え直してみるとどうだろうか。それを行うことが自分自身が望む方向になっているのである。
T氏に憧れてしまった
(T氏についておさらい)
性的マイノリティを抱え、自身への嫌悪や身体的精神的困難を抱えながらも、文化祭の実行委員長・音楽活動などを行っていた人物である。
前回書いた記事によって、T氏がどのような状況下で様々な活動をしてきたかが分かった。そこでT氏は素晴らしい人で、理想とするべき像であると考えた。つまり、「心身を壊してでもひたすらに活動し続けること」が理想像となったということである。
なぜこんなことを考えたのか、自分のことを少し振り返りたい。
自分の生活
今年の1月からアルバイトを始めた。月に60時間程度やっていた。部活動の時間も含めれば過労死ラインと呼ばれるような時間も超える。純粋な休日がほとんどないような状態でいた。そのような環境の中で、私はある一言を
言っていた。「忙殺されたい」と。
これを言ったのは1月の途中で、まだ心に余裕が比較的十分あった時だ。この時からすでに「ひたすらに活動し続けること」を理想としていたようだ。
T氏についてまとめて、「心身を壊してでもひたすらに活動し」ていたことを知った。それを今の自分の境遇に重ねたとき、少し合致するようなものを感じた。
それで思ってしまった。そんな生き方をしたいと。
「何者かになりたい」
これは前回書いた記事にもあった言葉だ。それと今回の「心身を壊してでもひたすらに活動し続けること」が融合した。
恐らくこれから私は、「何者かになろうとするために、心身を壊してでもひたすらに活動し、踠(もが)き続ける」のだろう。「葛藤を抱えながら生きる」という言葉が置き換わったのだ。
これから
勿論、これを押し通し続けたとしたら、心身が破綻してしまうことはとっくに分かっている。それでも、もう戻れないのかもしれない*¹。今日のある時には、久々に自殺の可能性について頭をよぎった。数年ぶりである。
もし本当に実行してしまうとしたら*²、『こころ』のようにそれに至った経緯を残していくでしょう*³。
備考
*¹ 執筆時点では、そのような信念から撤退する考えや行動力は残っている。周りの環境や法制度と勘案しながら、どちらに振れるかを検討している状態である。
*² 今はその時ではない。ダブルバインドによってどこにも行けなくなったときがそのときだろう。少なくとも、そのときが来ないようにしていることだけは確かだ(*¹を参照)。
*³ 古典的名著を踏襲するということは個人的には素晴らしいことだと思っている。素晴らしいことをして終われるのなら本望なのではないだろうか。
追記
「摩耗」は部品や機械に対して使うそうだ。