
「のだ」小説版についての雑感
ボカロ曲「のだ」の小説版を読んだ。
僕は以前「のだ」をクソミソに批判する文章を書いたことがある。今でも上の記事に書いたことは間違っていないと考えている(「ほんとうのきもち」の、「中身のない評論」という歌詞は自分への当てつけではないかという被害妄想さえ抱いている。w)。だからこそ、「のだ」の超アンチとしては小説版もしっかり読んでおくべきだろうと思ったのだ(笑)。
僕が「のだ」に批判的な理由はひとつで、ボーカロイドの「歌わせられすぎてアイデンティティが分からない」という思いを、Pがボカロに「歌わせる」ことで表現することに意味があるとは思えないからだ。ピノキオピーが「匿名M」で喝破する通り、ボーカロイドが何を言おうが所詮「全部、言わされてる」。それは卒業式で先生が生徒に学校への感謝の弁を無理矢理言わせるようなもので、予定調和の感動とでも言うべき白々しさがある。正直な感想は、

といったところだ。まあもちろん、ボカロPがどのようなボカロ観を持っていようと勝手だが、少なくとも外部がそれを「ボカロへの倫理的な態度」として持ち上げ、評論家まで同調してしまうのはさすがに安易すぎるだろう。どれだけ評論家や考察勢が賞賛しようと、僕は「のだ」を評価しない。
で、小説版の話だ。ボカロのノベライズは基本的に原曲ファンが手に取ることを想定したものであり、且つ僕はファンではないので、「ふーん、よかったね」という感想しかない。とりあえず原曲リスナーからの評判はいいようなのでそれ以上外野から付け加えることはないが、例によってこの作品にも、二次コンテンツが結果的に生んでしまう原作への批評性のようなものが見受けられたので、そのことについて書いておきたい。
一応内容を説明しておくと、この小説はキナコという少女が天才的な歌の才能に目覚め、歌い手としての活動に邁進していく‥‥‥という話になっている。しかし、途中でキナコの声が無断転用されて(ずんだもんのような)ボーカロイド素材となり、ネタ動画の音源や過激発言の代弁などの「自分の考えや意図とは違う使い方」をされるようになってしまう。自分の声が勝手に様々な用途に使われた結果、キナコは「本当の私って、何」という悩みに苛まれてしまうが、いろいろあって(すみません)それを乗り越え、歌い手としての活動を再開することになる。
まずこの作品は、明らかに本家「のだ」のアイデンティティ不安をめぐるテーマを、主体をボーカロイドから人間に移した形で踏襲したものになっている。僕が問題にしたいのはそのことだ。もちろんこれはあくまで、小説内でずんだもんやミクを主人公にするのが困難であるために、また「本当の自分が何か」というテーマにより普遍性を持たせるために行われた操作に過ぎない。しかしこの「擬人化」という手法が生み出してしまっている批評性については、特筆に値する。
それは要するに、「機械の人権」というテーマを掲げる上で、機械の意識を「擬人化」するという前提から始めることは有効なのではないか、ということだ。言うまでもないが「擬人化」は、非人間をめぐる現象を、仮に人間の言動に置き換えてみました、という試みだ。「仮に」というところが重要だ。それは、人間の想像の産物に過ぎないという限界をしっかり踏まえた上での、(大袈裟な表現になるが)科学的で訂正の余地を残した営みだからだ。
ここで補助線的に脱線するが、僕が「のだ」を読んで思い出したのが、野崎まどのSF小説『タイタン』だった。完全オートメーション化された近未来の世界で、全てを司るコンピュータが不調に陥り、問題を解決すべく主人公が「AIのカウンセリング」をするという、設定としてはかなり突飛な話だ。主人公はカウンセリングをするために、AIを一人の少年として人格化し、それを成長させてAI不調の底にある原因を探っていく。その結果明らかになるのは「大量の仕事を押し付けられる憂鬱」といった程度のものだが、そのありふれた結論が「擬人化」という過程を経て読者に突き付けられることで、説得力を伴っているのだ。
これは「のだ」小説版で起こっているのと同じ現象だ。ただ、『タイタン』があくまで設定として「擬人化」を行っているのに対し、「のだ」は構造の次元で「擬人化」を行っている。『タイタン』の例に即して述べるなら、ずんだもんのメッセージがノベライズ作者によってキナコの物語として再発信されることは、カウンセラーがAIの人格を作って悩みを話させるのと同じ行為なのだ。これは、「のだ」に限らず、ボカロをノベライズするという行為自体が、ボカロの使役の問題に対する批評性を持ち得ることを意味している。
「ボカロの使役の問題に対する批評性」とは、要するにボカロを作り、聴くまでの流れに内在している(が、無視されてきた)重要な「擬人化」のプロセスを露わにしているということだ。
考えてみれば、そもそも、「のだ」においてボーカロイドが歌っていることを曲のメッセージとして受け取るまでの過程にも、気付かないうちに「擬人化」というプロセスが入り込んでいる。当然だが僕たちは、本来歌わされて(言わされて)いるだけのはずのずんだもんを、自律的な主体と仮定して(=擬人化して)いるからこそ、「のだ」のメッセージに涙を流したりしている。
後付けだが、僕が批判したのは、「のだ」を絶賛する人々がこの擬人化の作業をなかったことにして、「擬人化」されたボーカロイドと本来のボーカロイドを混同している点だったと言える。逆に言えば、擬人化のプロセスを前面化した作品ー「のだ」小説版や『タイタン』のようなーは、「歌わせる」こと、「言わせる」ことの倫理に対する一つの解になり得る。
ノベライズの著者は、ボーカロイドがあたかも人のように歌った言葉を、人格を持った人間の語りとして再構成する。読者はこれを「二次創作上必要な操作」として半分当然のこととして見なす。つまりここでは、歌唱→小説への移行自体が「擬人化」の作業として、読者の前に差し出されており、読者の側もそれを自然に受け取っているのだ。気付きにくいが、ここにはボカロP/ボーカロイドと視聴者に近い関係が(隠された「擬人化」のプロセスを顕在化して)表出しているのではないだろうか。
歌唱から小説への変換という作業自体が、ボーカロイドの「歌わせる」問題の根底にある「擬人化」を前面化させてしまうということを、「のだ」小説版は露呈する形になっている。もちろんこれは、ボカロのノベライズが持っている(そして語り落されてきた)一つの可能性に過ぎない。