ヒカマニとヒカニチの線引きを今すぐやめるべき理由
ヒカマニが衰退した、と言われているらしい。HIKAKIN本人に認知されてアングラ度が低くなったことや、ムーブメントを引き起こしたHikakin Maniaの撤退などを根拠に、「2019年頃のヒカマニは勢いがあって良かった」とノスタルジーに浸るユーザーをあちこちで見かける。
確かに2019年前後の全盛期に比べれば勢いの差は歴然としている。以前noteに載せた「ヒカマニと音MADのディストピア」で書いたことだが、ヒカマニは「規模だけがどんどん大きくなっていく」という音MADの典型的なディストピアに陥っていて、おそらくはそれに物足りなさを感じるユーザーが多いのだろう。
ここからが本題なのだが、ヒカマニの衰退の一因として「ヒカニチ」の出現を挙げて批判する人間が一定数ーいやかなりの数いる。ヒカニチというのは文字通り「HIKAKINの日常」であり、ヒカマニで生産された素材を使って、学校生活や家庭での生活といった下ネタ込みの日常を演出するものだ。そしてこの「ヒカニチ」が、一部のヒカマニ消費者から(潜在的には大半のヒカマーから)嫌われているのである。
理由としては、ヒカマニと比べて動画のクオリティが低いことが大きい。さらに、本来ヒカニチと呼ばれるべき動画がヒカマニにカテゴライズされていることに不快感を感じることも原因にあるようだ。
結論から言うと、僕はこのヒカマニとヒカニチの対立、そもそもこんなアングラなミームを二つのジャンルにカテゴライズする行為は全くもって非生産的なので、やめた方がいいと考えている。ヒカマニの方がヒカニチより上、と何の留保も無く高らかに断言するような人には率直に言って軽蔑しか感じない。「ヒカニチのせいでヒカマニが衰退した」という短絡的な認識は、第一に誤りであり(繰り返しになるが、ヒカマニの現在に至るまでの展開はMAD素材としてはありがちなことだ)、第二にコンテンツの本当の意味での「衰退」を招く害悪以外の何物でもない。
確かに誇り高いヒカマーたちが指摘するように、大して編集に労力をかけていないと思われる低クオリティのヒカニチ動画は多く見られる。しかし、僕はここで「労力をかけた高クオリティのヒカニチもある」というありがちな水掛け論を展開するつもりはない。ヒカマニとヒカニチの対立にある最も大きな問題は、どうやらヒカマーが自分たちを「一次創作者」と思い込んでいるらしいことだ。
どういうことかと言うと、まずヒカマーがヒカニチに嫌悪感を感じる理由は「自分たちが作った素材を安易に使われているから」だ。そこには、「俺たちが努力して動画を作ったのに対して、こいつらはのうのうと楽して作りやがって‥‥‥」という独善的な怒りがある。これは二次創作に非寛容なクリエイターと同じ発想であり、ヒカマニの消費者たちが、ヒカマニを「元ネタ」であり一種の「一次創作」として捉えていることを意味する。
しかし、本来は二次創作者であるはずのヒカマーたちがこのような行動をとっていることにこそ問題がある。一次創作者が二次創作を拒否する権利はあるが、ヒカマーはそうではない。当たり前のことだがヒカマニはHIKAKINの動画を無断で使用して(名誉棄損になりかねないような)下品なものに改造するコンテンツであり、二次創作である。言ってみればこれは「本家作品を安易に利用し、価値を貶める行為」だ。つまり、ヒカニチがヒカマニにしているのと本質的に同じことを、ヒカマニもHIKAKINに対して行っているのだ。ヒカニチによる二次創作を蔑む権利などどこにもない。
ヒカニチを批判するヒカマーたちは、自分たちがあくまで「二次創作者」であるという認識を持てていない。残念だが、ヒカマニが衰退する原因があるとしたら、ヒカニチではなくこのような創作に対する最低限のモラルを欠いた人間のせいだと思う。二次創作としての認識を欠き、お門違いに派生コンテンツを叩く行為は、創作をどんどん貧しくしていくだけだ。話は逸れるが、フォーエイト音羽の炎上事件や、メガテラ・ゼロの「酔いどれ知らず」削除の件も、同じようにヒカニチを叩くヒカマーに似た思考を持つ輩によって引き起こされたものだ。
だから、ヒカマニの衰退を止めたいのなら(本気でヒカマニが続いて欲しいと願う人間はどれほどいるのだろうか‥‥‥僕は正直ヒカマニなんてなくなっても良いとは思うけれど)、「昔は良かった」と懐古して思考停止する前に、まずヒカマニとヒカニチとの無闇な区別をやめるべきだ。玉石混交の作品群の中から、ヒカマーが許容できるようなクオリティの高い動画は自ずと浮上してくるだろうし、安易な編集による低品質の作品は淘汰されていくだろう。無闇に線引きをして不毛な争いを繰り返すよりも、思い切ってぐちゃぐちゃにしてしまう方が、遥かに有効な解決策になるはずだ。