街にいた最中
自衛隊というのは、最初は警察予備隊と称し、それが保安隊に改称し、さらに変わって自衛隊となったのだが、まだ保安隊と言っていたころのこと。
ぼくの親父は大学の教師だったから、教え子や同僚が遊びに来ることがちょくちょくあったが、ある日、保安隊に就職した教え子のひとが訪ねてきた。
土産に最中を持ってきたのを、親父が応対している部屋から少し離れた台所におふくろは持ってきた。
ぼくは保安隊のくすんだ緑色の制服が珍しかったので「あのひとなあに」と聞いた。
ぼくはそう言ったのだが、おふくろは「なあに」しか聞こえなかったらしい。
「もなかだよ」
と答えた。
ぼくは、親父の知り合いには変わった名前のひとが多いと思っていた、というのも大学の教師となれば教え子にはいろんな地方のひとがいたからだが、たとえばダケさんというひとがいた。カンノさんというのは、いまなら菅野美穂とか想い浮かべるくらいで、珍しくもないのだが、当時のぼくには物珍しかった。タンノさんというひともいて、そのほうがカンノよりは少ないはずだが、しょっちゅう来るひとだったので、さして珍しくも思わなかった。
そんな親父の教え子に「もなか」というひとがいてもおかしくないと、ぼくなりに納得した。
数日後、家の最寄りの私鉄の駅から、これも近所にある某大学文理学部に通じる通りを行き交う人々のなかに、カーキ色の制服の人物が歩いていた。
こないだのひとと同じひとかな、ちがうかな、と思いながら見た。
夕食時、親や兄貴たちに、ぼくはふと、
「きょうは、もなかが歩いてたよ」
と言った。
おふくろは七十年以上もあとまで、飽きずにこの話をしていた。ぼくは息咳き切って家に飛び込んできて報告したことにされていた。