ゴリラのココ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B3_(%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%83%A9)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ココ_(ゴリラ)
§ ゴリラのココは、人間とは何なのかを考えさせる。
それは、いわゆる人間性とはいかに人間だけに限られないものであるかを、ココは示しているのではないか、という意味である。
「人間」という意識が人間を狭め、人間が自分自身に望んでいる生き方に近づきにくくしていることを、こういう、どうぶつを知ることで、考えさせられはしないだろうか。
そんな存在であるココが、ロビン・ウィリアムズと楽しく戯れ合っている映像を見ながら、このときも、そこは檻の中だったのだということを思う。
ロビンとの出会いの場は、なんの罪もないゴリラを終身懲役の刑に処している刑務所なのだ。
ほんとうはココはそんな場所にいるべき者ではないということを、ココに手話を教えた動物学者はこのゴリラに伝えているだろうか。
自民党政権下の我々日本人の姿が重なる。
ココの本来あるべき姿は、動物園においては本来の主体であるココに対して隠蔽されるべき特別秘密であろう。
そして、ココの、死についての認識。
ココに、宗教はない。
だが、ボノボたちが死んだ仲間を悼む例は知られている。ゴリラも、ある程度、同様なのだろう。
別れの悲しみはあり、愛する相手の思い出を大事にする心もある。それは、象などにも見られることだ。
こういう記憶は時間の意識がなくてできるものだろうか。
死に別れた子や友のことだけではない。人間のせいでひどい目にあったこととか、災害や飢えのことなどを、どうぶつたちは覚えている。
それは時間意識ではないだろうか。
ゴリラが自分の死まで含めた将来を思うことのできるものだということを、ココの例によって知るのは、私たちにとって、苦しい。
しかも、動物は一種、第六感と言っていい感覚をもつことも、知られている。米国の西海岸で飼い主に置いて行かれ、東海岸まであの国を横断して、飼い主と再会した猫の話は有名である。2500キロを、彼は、あるいは彼女は、何に導かれて歩いて行ったのだろう。
また、南アの著名な動物保護活動家、ローレンス・アンソニー氏の、こんな話も、大いに知られていい。
アンソニー氏は、イラク戦争の戦火のなかで、バグダッド動物園に乗り込んで象の保護に当たった人物だが、同氏が2012年に亡くなったとき、その翌日には、延々数十キロ離れた地区に住んでいた象たち31頭が、長老(象の群の長老は牝だ)に率いられてアンソニー邸に、静かにやって来て、中庭に坐りこみ、一声も発することなく、2日間過ごしたあと、また黙って引き上げたという。彼女らがアンソニー氏の死を悼む行為をしたことは確かだ。しかも、どうやって、氏の亡くなったことを知ったのだ。象の第六感か、あるいは動物界に密かに張り巡らされている不思議な情報ネットワーク(植物にはそういうものがある)を想定するほかない。
私たちは、ここまで、異種動物と私たちの境界のあいまいさを知ってしまった。
ならば、中国人がどうした、韓国人がどうしたなどと、言っていられる場合か。
逆にぼくならば、中国や韓国の八百屋や事務員や土木作業員や学校の先生などよりも、日本でのさばる政治家や企業経営者や投資家などのほうがよっぽど嫌悪の対象だ。
それに、そんな連中に好都合な偏見の中に閉じこもって生きることに安心している、その他大勢の人々のほうが、リアルにいやだ。
そして、そのように自分と周りの多くのニッポン人を分け隔てるぼく自身も、もしかしたら、ロビンと抱き合うココのほうに、意識を近づけたほうがいいのかもしれない、とも思う。
§ かつて1996年にミリオンセラーとなり、永田町、丸の内、霞ヶ関の男どもに礼賛されて、その後、日本会議のやっている親学などにも影響を与えた性差別のバイブル、林道義著『父性の復権』を、実弟の紘義氏(社会主義労働者党)は痛烈に批判し、その論文のなかで、ゴリラの社会は人間社会のモデルにはなりえないと主張する。
じつは、林道義が自分の主張の論拠としている山極寿一氏のゴリラ研究は、林の引用とはおそろしく異なるものだ。林によれば、山極氏の著書には、ゴリラの社会は雄が治めていることが述べられているというのだが、山極氏はあるテレビ番組で、コンゴで撮影してきた映像を使って、ゴリラ社会は林の言っているのとはまったく逆であることを説明していた。寄ると触ると喧嘩になる雄たちを、雌がなだめて、群の平和を保っているのだ。それが人間社会のモデルになるなら、まことに結構なことだが、紘義氏はそれには触れない。性差別は社会主義によって階級差別が止揚されれば自ずから解決するというドグマを信奉する紘義氏の限界だろう。ぼくは、道義を批判する紘義氏のほうが数等ましだとは思うけれども、彼の主張の底には、どうぶつは人間とはちがうという、19世紀どまりの「科学」に依拠するマルクス主義者らしい「人間中心観」が感じられる。
林道義が勝手に、父権制の復活のために捏造したゴリラとは違う、もっと正しい意味においても、人間とゴリラを比較すべきだろう。
19世紀のフォイエルバッハなら、どうぶつには意識はないと断言することができたが、それはクロポトキンの相互扶助論、そして、現代の長足の進歩を遂げた動物学にもとづくなら、まったく信ずるに足りない。あまり断定的に、どうぶつはどうぶつ、人間は人間と分けてしまうことは、もうできないと、ぼくには思える。
これは、どうぶつたちを夥しく犠牲にしている身にとっては苦しい認識である。
でも、そこに、自分たち人間についての、いくばくか新しい、ことによったら根本的な意味をもつ発見もあるかもしれない。