日本語の伝統を壊す自民党憲法草案
2016年1月5日、新宿西口で市民連合が行った街頭総がかり行動第1弾で、精神科医の香山リカさんは、アベ政治は人間が人間であること、心をもつこと、言葉を持つことに対する破壊であり、この闘いは、人間であること、心をもつこと、言葉を「取り戻す」闘いだと語りました。香山さんはその後、この発言をわずかでも訂正する気になったことはないだろうと私は思います。
私のこのノートは、アベ政治が言葉の破壊であることの、一つの例証として、お読みください。もちろん、菅首相はアベ政治の継承を謳っており、それはしばらくすれば、路線を修正するかもしれないとしても、いくつかの基本的な点では、いつまでも変わらないでしょう。議会や記者会見での答弁拒否、回答拒否、情報の隠匿、メディアへの懐柔と脅し、記録の改ざん、官僚の生殺与奪の権を握って彼らを不正に頤使すること、小選挙区制のもとでは選挙候補者にとって死活問題である党中央による推薦を通じて、党内をイエスマンばかりで固めること、独裁にほかならない議会無視の閣議決定などは、菅氏が官房長官だった時代からアベ政権の中枢として行ってきたことで、それを変えるわけがないからです。
菅政治も、そんなわけで、私たちが人間であること、心をもつこと、言葉をもつことに対する侵害、破壊であり、菅政権との闘いは、私たちにとって、人間であり、心をもつこと、そして言葉を取り戻す闘いです。
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自民党の改憲案を作った連中は、現行憲法はアメリカ人が作ったから、日本語としてなってないと言っています。
現行憲法が「言論の自由は、これを保障する」に見られるような「~は、これを・・・する」というパターンを採用している箇所を、彼らの改憲案では、すべて「~は、・・・する」に変えているのも、そういう理由にもとづくのでしょう。
しかし、これは、彼らの日本語の感覚を疑わざるを得ません。
「集会および結社の自由は、これを保障する」というような文が変だと、自民党の面々は思いたいようです。
しかし、もしそうなら、戦前には尋常小学校の生徒が暗唱していた「身体髪膚、これを父母に享く、敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり」という孝経の有名な句は、どうなるのですか。
これは、口語にすれば「体と皮膚や髪は、父と母にもらったものだ。つとめて怪我したりしないようにするのが、第一の親孝行だ」となります。
現行憲法は、そういう古典から続く日本語の伝統を踏まえて作成されているのに、それすら分からない自民党政治家の日本語の教養の低さは嗤うほかありません。
なんと言ったって、憲法の文体を最終的に決定したのは日本人の役人であって、GHQの将校ではないのです。
当時の日本政府の役人たちは、いまの、二言目には「〜してございます」を連発する役人たち(多くの場合、それは文法的に間違っています。「私はしかじかとお答えしてございます」など、耳をふさぎたくなる)とはちがって、文語体の文章くらいは即興ですらすらと書ける程度の教養はあったはずで、セクハラ・チンタローごときが見下した口をきくのは、口幅ったいことです。
現行憲法の文章を自民党政治家は英語の直訳などと言いますが、それなら、英文を見るといい。
Freedom of assembly and association ..... are guaranteed (集会および結社の自由は、保障される)となっているではないですか。この文のどこに「これを」に相当する単語がありますか。
つまり、現行憲法の日本語訳はたんなる英文の直訳ではないのです。それだけ彼らも日本語独自の文体を尊重した結果が現行憲法なんです。大先輩をなめるな、アメリカ人をなめるなと言いたい(ひごろ、彼らの足を舐めるようなことばかりしている議員たちには通じない話でしょうが)。
では、その「米国の押しつけ」だと彼らの言う現行憲法を書き改めたと称する自民案は、日本語としてどうなのでしょう。彼らが繰り返し書いている「~は、保障する』は、日本語として整っているか、以下きちんと文法的に検討してみようじゃありませんか。
「集会および結社の自由は保障する」
なんだか不安定な文ではありませんか?。
「保障する」とだけ言ったのでは、「誰が、あるいは何が(保障するか)」が欠けていることが感じられるからです。
これを安定させたければ「~は、保障される」とすべきでしょう。上に掲げたFreedom of assembly and association ..... are guaranteed (集会および結社の自由は、保障される)と同じ受動文です。
受動文というのは、客体を主語にすることで、動作の主体を明示せずにすませるテクニックですから、どしどし使えばいいのに、それくらいも思いつかないのか。
これは、言い換えれば、受動態にしないと、「誰または何が保障するの?」ということに、どうしてもなってしまうということです。
では、誰が、あるいは何が、言論の自由を保障するのでしょう?
まず、「誰が」から考えてみましょう。
誰が保障するのかと言えば、政府だということになるでしょう。
とすると、この改憲案は、国民の権利は政府が保障してやるものだという発想にもとづくものだということが、こんな文体の決定にまで露呈していることになります。なるほど、主権在民を否定する連中の作る憲法とは、そういうものでしょう。事実西田昌司のように、国民に主権があるなんておかしい、などと公言する政治家がアベ政権の中枢にはいましたから。
他方「何が国民の権利や自由を保障するのか」と言えば、これは当然、憲法が保障するのです。
「憲法が集会・結社の自由を保障する」。そういう意味のことを述べる場合、次の4つの文が考えられます。
1.(当憲法は)集会・結社の自由を、保障する。
2、(当憲法は)集会・結社の自由は、保障する。
3、集会・結社の自由は、(当憲法が)これを保障する。
4.集会・結社の自由は、(当憲法により)保障される。
「集会・結社の自由は保障する」という自民党案の文は、上の2にあてはまります。
つまり「我々(=政府)はお前たち(=国民)に集会・結社の自由<は>保障する」ということです。これは、あとに「しかし、その他の自由(=反政府行動やストライキなどの自由)は認めない」というふうに続くのだと受け取られるのが文法的に自然なのです。
つまり、例えば、「日本酒は飲むが、ワインは飲まない」などというのと同じパターン、対比あるいは一方を排除する意味での「は」だと理解されるほかないのです。そういうパターンをこんなところで使うのは、明らかに誤りです。鈍感きわまることです。
2の文は、助詞「は」が重複しています。
「は」を重複させることは、特別の必要がないかぎり、避けるべきものです。
ゆえに、自民党案の文は、なにか特別の必要があるのだろうか、と感じさせることになります。「これは保障するが、ほかのことは保障しない」という「対比」あるいは「排除」を示す必要、すなわち特別の必要があるならわかりますが、そうでなければ、この文は稚拙な文にすぎなくなってしまいます。
自民党にそういう傲慢悪辣な意図があるのは明らかですが、そればかりでなく、彼らの言語に対する無教養のせいで、そういう変なニュアンスのついた、ふさわしくない文章をなんとも思わないのです。
自国語をこれほど軽んじる愛国者とはなんだろうか・・・
自民党憲法改正草案は、自民党の政治家の傲慢さ、横柄さをはなはだ無思慮に表現したものです。同時に、日本語の文章として落第です。
【なお、 自民党の議員たちは、現行憲法に出て来る「諸国民の公正と信義に信頼して」という語法も、英語からの直訳だと思っています。れっきとした芥川賞受賞作家である石原慎太郎も加わっていながら。彼らの誤りを明快に指摘した、今は亡き泥憲和さんの論考「憲法はなまっているのだろうか」を、是非ご一読ください。】
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