“環境活動家の芸術作品への攻撃”が、ただの自己満どころか「確実に失敗だ」と確信するいくつかの根拠(#60)
4月末日、アメリカの首都ワシントンにある国立美術館にて環境活動家二人がエドガー・ドガのワックス製彫刻作品『14歳の小さな踊り子(La petite danseuse de quatorze ans)』にペンキが塗られるという事件がありました。
北米では初めてですが、英語圏で最近頻発している環境保護団体の抗議スタイルのひとつです。
彼らの主目的は「環境保護」に関するものであるはずなのに、その目的以上に悪目立ちしている印象は否めません。
かつてバブル期の日本で大昭和製紙(現・日本製紙)元会長、齊藤了英がヴァン・ゴッホの『医師ガシェの肖像』を125億円、ルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』を119億円で落札し、その絵を自分の死に際して「棺桶に入れて焼く」との発言が世界中に波紋を呼びました。
たとえ富豪者がオークションで高額落札したとしても、芸術品は「私物」にはならないことを物語るエピソードかもしれません。
「私物」ではない、つまり「公の財産」として留まる作品は環境活動家にとって公権力を司る攻撃の対象のひとつと捉えられたのかもしれません。
しかし、歴史を辿っていくと洋の東西問わず同様のエピソードがあることに気付かされます。
それらは現代においてある地域の野蛮な過激派行動のように映りますが、意外に身近で、芸術作品は因縁の矛先となっていました。
そんないくつかの事例をご紹介し、最後にこれら破壊活動が何で起き、何をもたらすのか、私見を交えながら推察していきたいと思います。
ヴァンダリズムとは
今回の環境活動家の行為は“ヴァンダリズム”と呼ばれるものです。
ヴァンダリズムとは故意に他人の所有物に対して破壊や損傷を伴う行為や落書きなどすることを意味します。
その言葉の由来は西ローマ帝国時代にローマを侵略したゲルマン系のヴァンダル族のヴァンダルにちなんだもののようです。
「ヴァンダル」という言葉を世に広めたのはフランス革命後の恐怖政治時代でした。
この時期、フランスでは数々の宗教芸術や建造物が破壊されたそうで、そうした行為をヴァンダル族の行為になぞらえて「野蛮だ」と非難したことに端を発します。
そう紐解くだけでも「革命」という言葉に与り、「何でもあり」な破壊活動が行われたのが分かるようです。
破壊活動と政教分離
そもそもフランス革命代になぜ宗教芸術や建造物の破壊が行われたのでしょうか。
フランス革命期、転覆させる対象は旧体制(アンシャン・レジーム)と呼ばれる王政でした。
中世以降のヨーロッパの歴史は宗教戦争が色濃くなっていますが、それは人々に「信教の自由」がなく、国が定めた宗教が国教となる時代です。
言い換えれば宗主国や国王、皇帝など誰が定めたかによって異教徒になったり、邪教となるような時代でした。
ビジネス上で「破壊と創造」という言葉を耳にしたことはないでしょうか。歴史では国や体制の新旧という意味において旧制度が破壊される対象となりました。
なぜでしょう。
それは自由がなく、良いか悪いかしかなく、悪と決められたら排除の対象でしかなかったのです。
日本は国号(国の名称)が大きく変わない歴史を辿っていますのでこの感覚がピンとこないかもしれませんが、隣の中国では頻繁に変遷した歴史があります。ヨーロッパも中国同様に陸続きで統治国が頻繁に変わる歴史でした。
もしその国で都度異教徒になったり、国教徒になったりしたら、平等なんて保証仕様もないですよね。
簡単に言えばそうした背景があり、法を整備する行政、つまり政治と宗教を分離して統治する政教分離の原則が出来上がったのでした。
宗教にまつわる聖像破壊運動
宗教という括りで焦点を移すとどうしてもアフガニスタンのタリバン政権によるバーミヤン遺跡の石像破壊やISIS(いわゆる“イスラム国”)におけるイラクやシリア地域に分布する古代アッシリア遺跡の破壊などが記憶に新しいのではないでしょうか。
タリバンやISISは“イスラム原理主義組織”あるいは“イスラム過激派”などと呼称されることがあり、現代において「イスラム教徒に限定した過激行動」のように見られがちです。
しかし先述の通り、フランスでも、それ以前にはキリスト教、仏教でも似たような行動の歴史がありました。
キリスト教における“イコノクラスム”
ヨーロッパの歴史は民族・宗教抗争の歴史といっても過言ではありません。
古くはキリスト教で最も有名なのが8世紀から9世紀に東ローマ帝国で行われた偶像(イコン)破壊運動がありますが、この史実に限定されるわけではありません。
宗教改革、フランス革命など代表的なものから小規模なものまで多数です。
キリスト教に限らず、ユダヤ教、イスラム教などすべて依拠している文言によって破壊活動を行っています。
それはユダヤ教・キリスト教でいえば聖書であり、イスラム教でいえばコーランです。
仏教には聖典こそあるものの、釈迦が生前文書化を認めなかったため、死後伝言が文書化された背景があり、解釈が治世者によって歪められたりする歴史がありました。
聖典はともかく解釈はどの宗教間でもあるいは同一宗教内部でも異なる価値観を有し、派閥を形成していくのは共通しています。
大事なのは宗教の名を借りて行為を正当化してきた歴史が繰り返されたということです。
都合よく作られれば、都合よく壊される−−どちらも私欲に塗れた歴史といえるかもしれません。
明治政府による廃仏毀釈
日本においても例外ではありません。
国号こそ「日本」で大きな変化はなかったものの、時代の変わり目では同様の破壊を見ることができます。
特に日本史上、顕著な変化は何かと訊かれたら明治維新が第一に挙げられるかもしれません。
明治維新によって日本は急速な近代化を遂げることに成功しました。
その国作りの裏側で破壊が行われていたのです。
新政府は「天皇中心の国づくり」を目指しました。
天皇は天照大神の血統で日向国(今の宮崎県)で誕生した神武天皇の末裔といわれています。
この話は『古事記』『日本書紀』などに依拠しており、それに基づいたものが神道です。
神道は教えではなく自然と神を一体と考え、神と人間を結ぶ「祭祀」を重要視するもので、祭祀は神社で行われます。
対して寺は仏教のある宗派に属した建造物です。
当然、仏像などもその宗派に依拠します。
新政府は「神仏分離令」を発布します。
それによって起きたのが過激な廃仏毀釈を用いた破壊活動でした。
尚、廃仏毀釈とは仏像を廃して釈迦の教えを棄却せよという意味もあり、日本だけでなく古代中国でも行われていました(※ただ中国の場合、破壊よりも民間転用や租税対象など経済対策としての側面が強いものでした)。
しかし、破壊したところでなくなるものでもありません。
地域に根づいていれば破壊活動は成果どころか損失しか残さないのです。
イデオロギーにまつわる破壊活動
上述の通り、政治が文字通り「政(まつりごと)」である以上、多くのケースで宗教と密接に関わってきました。
それは人民を動かすためのイデオロギーであり、そのために利用されたともいえます。
まさに当代の為政者が誘導したイデオロギーの被害を受けたのが芸術作品と言い換えてもいいでしょう。
もっと分かりやすい表現を用いるなら何らかの「イチャモン」をつけるのに都合がいいだったのでしょう。
その例として、ナチスドイツにおける絵画嵐と中国の文化大革命に触れていきます。
ナチスドイツで発生した「絵画嵐」
ナチスドイツの「ユダヤ人迫害」制作はご存じの方も多いと思いますが、「絵画嵐(ビルダーシュトゥルム)」をご存じの方は少ないかもしれません。
元々宗教改革時の「イコノクラスム」を指していた言葉でしたが、ナチスによって内容を書き換えられました。
ナチスのベースには「ドイツ民族」と「それ以外の民族」という構図があります。
それはユダヤ人だけでなく、ドイツ民族以外は劣った民族であり、ドイツ民族だけが優れているというものです。
芸術において、その時代に流行した近代美術や前衛芸術を道徳的・人種的に堕落したものとし、ドイツ民族によって侮蔑の対象としました。
ナチス風に表現すれば「他民族による劣った芸術がドイツ民族の文化を虐げている」、と。
それら近代芸術を蔑称の意味を込めて「退廃芸術」と呼びました。
あるときは壁画を塗りつぶし、またあるときは美術館に保管されていた絵画コレクションは売却もしくは廃棄したりしました。
たとえば、ユダヤ人でもあるシャガール作品は嘲笑の的となってナチスによって燃やされた作品と言われています。
あるときは「退廃芸術展」と称し、「しょーもない作品を“みなで嘲笑おう”」という展示会を開きました。
勿論、これもドイツの国威掲揚のために利用されたに過ぎません。
戦争終了後、ドイツに待っていたのは「芸術を放棄したという替えの効かない許されない過ち」を犯したという事実でした。
当然、失ったものは蘇るはずがありません。
中華人民共和国における文化大革命
歴史問題で関係が悪化すれば日系店舗を襲撃する人が現れたり、香港で大陸中国系の店舗を襲撃したり、断るごとに破壊活動の映像を目撃していないでしょうか。
これをもっと先鋭化した活動が文化大革命といったらわかりやすいかもしれません。
文化大革命とは1966年から毛沢東の死後1977年に終了した、中国共産党が失策と認め、中国の発展を数十年遅らせる原因ともいわれている運動です。
この時代、世界は冷戦時代でした。アメリカを代表とする資本主義陣営とソビエト連邦を代表する社会主義陣営という対立構造がありました。
中国が社会主義陣営で、この資本主義への対立構造をベースに政治的な思惑と絡めて、結果的に自国文化を大規模に破壊する結果をもたらしました。
文化面に焦点を当てれば旧思想・旧文化あるいは資本主義的とみなされたありとあらゆる文化に関係する人が吊し上げに合います。
教授や画家は非難の対象となり、罵詈雑言を浴びせられたり、あるいは死に至るケースもありましたが、そんな文革推進者が罪に問われることはありませんでした。
首謀者のほとんどが学生を中心とする紅衛兵で、無法地帯と化した状態でで、資本主義的とされた西洋画は燃やされ、挙げ句、古い建造物や作品も多数破壊されました。
一部では毛沢東の肖像画や語録などを付すなどして破壊活動から文化財を守ったそうですが、やはり全体からしたらごく僅かです。
破壊は「破壊のため」の破壊で、イデオロギーも何もないような異常で自滅的な状態でした。
ただ古い体制を変革するという建前から破壊したという事実はフランス革命と同様です
そして文化大革命が行った破壊の先にあったものは「失策」という結末でした。
まとめ
ヴァルター・ベンヤミンは著書『複製技術時代の芸術作品』の中で複製技術により「アウラ」が喪失することを語りました。
アウラとは平たくいえば、その作品が宿した「魂のようなもの」です。
ある時代の歴史によって正当化された破壊は作品の魂まで奪ったのでしょうか。
あくまでも破壊されたのは物体だけです。
物体は儚く、打ちのめされ、燃やされましたがその行為によって、むしろ逆説的にますます魂を燃えたぎらせたようにもみえます。
昨年新潟で修学旅行生が悪ふざけして美術館の現代アート作品を破壊したニュースがありました。
その後、作者の手によって修復され、奇しくも偶然がもたらした形式によってアートは再提示されます。
そこには作品自体が宿すアウラが“循環”となって、作品の中で息吹いているようでした。
環境活動家のそれは“迷惑系Youtuber”のそれに近いかもしれません。
人々の嫌悪を誘い、関心を惹くようでもあります。
しかしその行動が誰かに訴えるものだとしたら、何が届くものなのでしょう、共感でしょうか、それとも反発でしょうか−−。
破壊活動を行う者がどうして環境を保護できるといえるのでしょうか。
もし環境活動家が本当に環境を大切にしたいと考えるなら、彼らの考える環境と同じようにモノを大切にし、モノを作った他人を慈しんでほしいと願うばかりです。
なぜなら破壊が成功しないことはすでに歴史が何度も証明しているのですから。
<注>写真はフリー素材、Wikipedeaからの引用です。
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