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Movie:トゥルーノース(2020,🇯🇵🇮🇩)(#65)

本作は朝鮮民主主義人民共和国、通称北朝鮮を舞台にし、アルス・エレクトロニカ2021のアニメーション部門で栄誉賞を受賞した作品である。

北朝鮮が公式では存在を認めていない「政治犯強制収容所」での生活を描く物語で、現在ではアマゾンプライムビデオで無料で視聴可能だ。

ナチスのアウシュビッツ強制収容所とソ連のラーゲリを参考に作られたといわれるこの場所は“人類史上最も残酷”とも評されたりもする。

それゆえアニメ−ションを駆使して映像に柔らかさを加えつつも、その内容は衝撃的である。

それもそのはず物語の内容は脱北者や元看守らの証言を元に構成されているからだ。

北朝鮮は実質的に一党独裁かつ金一族による支配で成り立っている国だ。

そして平壌はそんな政権に協力的な人たちが住む場所である。

北朝鮮は建国当時にどういった立ち位置にいたかに準じて大きく3つの階級に分かれ、それを踏襲する形で中央の平壌とそれ以外へと広がっていく。

階級とは明文化されているわけでないものの、“核心階級”、“動揺階級”、“敵対階級”の3つで平たくいえば金日成、金一族との心理的近さを現す。

それが世襲されるので一生涯階級が入れ替わることはない。

そして平壌は元々金一族へ近い存在が住む街で、北朝鮮の中では裕福な人々が住んでいる。

要するに平壌から強制収容所へ行く理由は金一族や朝鮮労働党との距離感だ。

それゆえ恣意的で具体的な理由はあるようでない。

政権、つまり金一族へ批判的だったり非協力的だったり、はたまた韓国のドラマを観ていただけで連行されたり、そうした人物が親族にいただけで連行されたりする(これを“連座制”というが、そのせいで収容所に人が収まりきらなくなり、収容所を増築したり、連座制をやめたりしているともいわれている)。

そして強制収容所へ連行される時点でヒトしての尊厳がなくなる。

これはアウシュビッツに際するユダヤ人と同じである。

映像になると中々言葉に詰まるものがある。

そして映像では伝わらないものは臭いだ。

だから現実はもっと地獄なのかもしれない。

しかし、すぐそばにあるというのが現実味があるようでない不思議な感じだ。

強制収容所での体験談といえばユダヤ人精神科医ヴィクトール・エミール・フランクルの『夜と霧』が有名であるが、この物語にはその体験に準えられる場面をしばしば垣間見ることができる。

『夜と霧』はフランクル自身の体験から「脱反省」「逆説的思考」そうした用語と結びつき、メンタルコントロールによって希望を見出しきた日々を日記調で綴った一冊だ。

本作の“トゥルーノース”は北を指す羅針盤の意味があるようだ。

2000年代に日本で大ヒットした『冬のソナタ』でも「迷ったら北極星を探せ、そうすれば方向がわかる」というような台詞があった。

方位磁石もNを探す。

もちろん北朝鮮の“北”の意味と、公式見解では認めていない強制収容所の存在を明るみにし、真実を伝えるという意味の“トゥルー”も込められているのかもしれない。

ただその塩梅は政治批判の範疇のみに留まらない。

愛する誰かのため、と発するのは優しい。

ただあらゆる自尊心が削ぎ落とされていく過程で“本物”だけが残っていく、そんな印象はある。

生きることが目的であるが、やがて生きる以上の目的を得るのだろうか。

「食べて、働いて、働いて、、、俺たちは何のために生きているのか」

そういった台詞があった。

強制収容所にいなくても同様の物思いに耽ったことのある人は多いのではないだろうか。

そこが収容所とか学校とか会社とかにいるからではなく、生きているという現実に集中しつつ自分自身を保つことで初めて目的や意味が芽生えてくるのかもしれない。

本作が描く世界は本当に残酷で見るに堪えない現実だ。

そうした見たくない現実に目を背けてばかりもいられない。

その現実にたとえ無力だとしても、もし自由に向き合えるのなら、向き合うべきではないだろうか。

しかし、絶対に見た方がいいとはどうしても言えない。

やはりここにある現実は辛い、それでも本作をみる価値はあると思う。

我々は強く生きる必要もないし、自卑た生き方を望んでいるわけでもない。

ただ突然現れた不遇にどのように向き合うのかは、どんな環境においても変わらない命題なのかもしれない。

幸い、強制収容所の外にいる。

そしてその外からそんな現実を顧みるのである。

嫌だ、そして自分に何が残るだろうか−−。

その一考の価値こそが本作を鑑賞する価値なのかもしれない。


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