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30年を経て『河殤』を振り返る(3)

前回

さて、④の2本の北京週報記事のうち「『河殤』は何を宣伝したか」(1989.8.22.)は、『河殤』を徹底的に批判している。

「テレビドキュメンタリー『河殤』をめぐる反響と論争」は1989.1.24.付である。この間に発生した歴史的事件こそ6月4日の天安門事件だ。

但し、5ページにわたり徹底的に批判しているものの、最後を以下文言で終えていることは、注目に値する。

以上は『河殤』がとりあげた若干の主要な問題についてのいくつかの見方であるが、まだ深く掘り下げて語られているとはいえない。これらの問題は疑いもなく重要なものであり、検討に値するものだ。異なる観点も当然十分に反映されなけらばならない。十分な資料を集めたうえで、多方面からの深く掘り下げた検討がなされることを望んでいる。

『河殤』を完全には否定しないのである。あるいは明確に否定することを躊躇っている、と言うべきか。この論調は、11月刊行の③にも見ることができる。

さて、この「『河殤』は何を宣伝したか」は、実は《人民日報》1989.7.17.付記事「《河殇》宣扬了什么?」の翻訳である。

結語部分の原文は以下の通り。

上面是就《河殇》涉及到的一些主要问题的几点看法,没有来得及展开来谈。这些问题无疑是重要的,值得讨论的。不同的观点,应当得到充分的反映。希望能在充分掌握、占有资料的基础上,进行多方面的深入探讨。

ちなみに、このような重要な政策的話題の公式メディアによる翻訳は、最高の人材が徹底的に検討したうえで作成されているので、非常に参考になるものである。

この記事は、“易家言”なる人物が執筆したことになっている。同じ発音である「一家言」との含意がある。「一家言」の意味は現代日本語と同じである。

さらには、“易家言”が王震であることも、既に明らかとなっている。

劉鶴が2016年に“権威人士”の名で《人民日報》に経済政策を批判する記事を投稿したことを想起させる。

王震(1908-1993)は、日本的に表現すれば職業軍人である。一方で、解放後の復員兵対策や辺境開発を目的として、新疆生産建設兵団や黒竜江省国営農場総局の設立に主体的に関与している。

円借款事業に従事している際、黒竜江省国営農場総局のPJを担当し、各地で王震の名を見たことを記憶している。

文革時期には厳しく迫害され、天安門事件につながる民主化運動においては、鄧小平ではなく郷里を同じくする胡耀邦を支援していた、とされる。

しかし、1988年に国家副主席に就任するころには、鄧小平に気兼ねしてか胡耀邦追及の急先鋒となっており、“易家言”記事の論調と符合する。

次回も引き続き「『河殤』は何を宣伝したか」を見ていきたい。

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