漢学の素養とビジネス

 現役時代、中国業務専門家という属性であったことから「中国人とはどういう人たちか?」という質問を頻繁に受けた。もちろん、一言で答えられるものではなく、そもそも質問として体を成しているとも思えない。

 だが、こういう類の質問を発するのは以下のような意識を持つ人間である。
● 「欧米人」のことは熟知している、との自負がある。
● 自分は、日本人社会より「欧米人」社会の方に適応している。
● 「中国人」(あるいはアジア人全般)を啓蒙する必要がある。

 こういう方々に対して「そもそも、中国人などという民族はなく・・・」などと説明し始めても、聞く耳持たないのは明らかであるので、まずは「アングロサクソンと同じだ」と、返すことにしていた。

 違和感の強い枕詞で興味を掻き立てることが主目的ではない。文化・芸術や社会規範の議論ではなく、事業・ビジネスの領域内での質問なのだから、これが最適なのである。

 「冗談言うなよ」と、笑われたり、「ふざけるな」と、怒り出されるので、「次のような心得は、どれもこれもアングロサクソンとの交渉で必要とされるのではないか?」と、説明を続ける。

● 「以心伝心ではない」:細部に至るまで具体的に主張・説明する必要がある。
● 「見て理解せよ、は通用しない」:図表による説明ではなく文章で説明する。
● 「巧言令色は善」議論を厭ってはならない。
● 「誠意で交渉・取引は成立しない」:法令等の規範や利害関係は徹底的に引用する。

 すると、判で押したように「いや、欧米人は、西欧人は…」と言い返してくるから、「欧米人、西欧人で一括りにできるでしょうか?」と返して、なによりも理解してほしい最も重要な基本的事実を説明する。

●中華人民共和国の面積は、EUの約2倍。人口は、約3倍。民族・宗教は多様。
● EUよりも地域独自性が強い“連邦”。これを中国共産党“王朝”が強権で統制している。
● “連邦”内には利害が錯綜する“国際関係”があり、アングロサクソン的な競争・協調ルールが生じる。

 このような東アジア大陸国家群の実態は、改革開放から40年が経過し、多くの人間が現地に触れ、報道される情報も溢れるようになっても、まだまだ特殊な専門知識の扱いであるのは、極めて残念である。

 寧ろ、文革期や改革開放初期の方が、戦前に教育を受けたり、ビジネスに従事していた方々が現役であったので、広く理解されていたのではないだろうか。

 旧制高校世代であるエンジニアの方にお供して、かつて中原と呼ばれた地域を訪れたことがあったが、行く先々で所縁のある史記などの一節を詠み合い、大いに盛り上がった。この世代の方々は理系であっても豊富な漢学の知識があることに気づき、改めて驚かされた。

 漢籍は、外国語の古典である。これを自国語で直接読むことができる訓読という文化の利点は計り知れない。現代語の知識がなくとも「こころ」を共有することができる。現代の体制の背景を知ることができる。

 日本における漢学、そして漢民族による日本の漢学文化に対する認識が、いずれも専門的な特殊技能となることにより、失われていくものは大きいのではないだろうか。それはビジネスや外交上の利益という尺度のみでは測り尽くせないはずである。


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