30年を経て『河殤』を振り返る
今、手元に『河殤』に関する3冊の書籍と2本の雑誌記事とがある。
①「河殤―中華文明の悲壮な衰退と困難な再建―」弘文社 1989
蘇暁康・王魯湘 編、辻康吾・橋本南都子 訳
②「河殤(電視片集解説詞)」三聯書店(香港) 1988
蘇暁康・王魯湘 総選稿
③「重评《河殇》」杭州大学出版社1989 钟华民 等
④「テレビドキュメンタリー『河殤』をめぐる反響と論争」 北京週報 1989.1.24.
「『河殤』は何を宣伝したか」 北京週報 1989.8.22.
『河殤』とは何か。①の訳者である辻康吾による“あとがき”から引用する。
(“・・・”は中略を示す。)
『河殤』は1988年6月11日から28日まで最初の放映が行われ、・・・8月下旬に再び放映された。
・・・
中国指導部内で『河殤』に対する批判の声があがり、11月以降シナリオの販売も禁止されたと言う。
・・・
この作品は中国が誇る中華文明に対する全面的否定に始まり、間接的とは言え極めて明確に毛沢東を批判し、また建国以来の社会主義政策や政治体制を厳しく批判するなど極めてドラスチックな論陣を展開していることである。
黄土大地ををえぐる黄河の激流、劉少奇の遺骨を海に撒く王光美の姿など次々と展開する多彩かつ衝撃的画面とともに、『河殤』は多くの中国人にかつてないほど大きな心理的衝撃を与え、民族の歴史と未来に対する広範かつ真剣な思索を促した。にもかかわらず『河殤』が主張しているいくつかの論点自体は中国知識界では決して新しいものでも、過激なものでもない。文革終了以降の中国知識人の様々な主張を振り返ってみて、『河殤』はその急進性においてこれまでの論議を大きく超えるものではなかった。
・・・
学術論文や文学作品の形で発表される限り、劉賓雁らの党除名のようにそれなりの政治的波乱を呼び起こしてきたものの、なお民衆の目からは遠いものであったと言えよう。だが『河殤』はこうした文革後の新思潮を家庭内のテレビ画面を通じて民衆の日常のレベルにまで一挙に押し広めるものとなった。
1988年の夏の中国を知っている。
当時はまだ中国に関係する業務には就くことは叶っておらず、国内で全く無関係の業務で“24時間働”かされていた。
かろうじて取得できた1週間の休暇で北京とハルビンとを訪れた。ハルビンには現地人の知り合いがいたのである。
訪れたのは8月中旬。『河殤』の再放映直前だが、当時はまだ知る由もなく、知るのは翌年になってからだ。
北京大学に自費短期留学していた数年前に比べて長安街に車が増えたことに驚いた。ハルビンの知り合いも裕福な方ではあるが、ようやく白黒テレビを購入したばかりで、冷蔵庫はなかった。
『河殤』の内容についても、①から引用する。
・・・
「十年の災害」と言われるプロレタリア文化大革命を頂点とする政治的激動の経験を通じてもう一度歴史を、あるいは民族性を問い直す作業が再開された。
この問い掛けに対して、『河殤』の作者たちは「中国では多くの事柄を、すべて『五四』から改めて始めなければならない」と答えている。
・・・
中国革命の原点、つまり「民主と科学」という五四運動のスローガンに象徴される中国の近代化の原点からの再出発が必要だとの認識を示している。
・・・『河殤』は・・・新中国の誕生を以て歴史を切断し、過去と徹底的に訣別したと主張してきた従来の公式歴史観と顕著な対照を見せている。
この空気感は、ハルビンの友人一家からも感じられた。彼らは文学研究者、医者、SEという知識人であった。
みやげに持参した家電製品にセンサーが搭載されている、と説明したが、英語を解する彼らでもsensorとは何かを知らず、みなで辞書を引きながら説明したことを懐かしく思い出す。
『河殤』の放映は、天安門事件のちょうど1年前である。
④の2本記事は、天安門事件の前と後のもので、③は事件後の11月発刊。
習近平の中国共産党が、科学の非民主的な進化と応用とを駆使し、文革や五四運動で批判された体制への回帰を志向している今、『河殤』を振り返ることは重要であると考える。
①~④の内容を確認していきたい。