プラスチックの再価値化
ポリエステルの酵素分解についての研究を本格的に始めて、半年か一年かが経った。いつの間にか、投稿論文の初稿原稿が完成した。これを元に修正をああだこうだ加えた後に雑誌に掲載されると、私はプラスチックの酵素分解についての一介の専門家となる。
そもそも私は酵素分解やリサイクルに興味があった訳ではない。理論宇宙論の大学院に入ったものの、一つの数式で世界のすべてが記述できるというノリが合わなく、次第に実験物理学に興味が映っていった。それは例えば、風呂場で手の平を揺らして作られる乱流は、どんな物理学の数式も太刀打ちできないことを知っているからだった。
もうひとつ私のアマノジャク性格が発動され、私の宇宙観は汎用繊維衣料のミクロな世界にある、などと周りに言うようになった。それは、無という概念は、宇宙観や宗教的な哲学などとの親和性が一般的には高いと思うが、無を何もないところから何かが発生する瞬間と捉えると、そんな光景というものは日常的にあふれている。病院で当たり前のように撮影するレントゲン写真、X線を発射する装置はある程度、真空になっているから、その状態から光が発射される瞬間は無という概念と無関係ではない。
また、宇宙の音を想像したり、NASAかどこかが録音した音を聞いた際、それはただのノイズ音だった。そう、宇宙は光が輝くような崇高な世界ではなく、むしろ、多くの人が無視するような、寒々とした世界観、もしくは、忌み嫌われるはずの世界観だと考えるようになった。そうして、おそらく世界中のほとんどの人が、美しさや大切さをほとんど感じないだろう、化学繊維のミクロな運動に私は宇宙を求めるようになった。
そうこうしている間に、X線実験によるポリエステルの結晶化について博士論文のゴールが見えてきたころ、分解の哲学の著作で知られる藤原辰史さんとプライベートな物理学勉強会をすることになった。初めは、熱力学から始め、自然界に存在する分子が分解される化学的描像を藤原さんが想像できるようになったら、という軽い想い、私なりの学術的貢献活動だったのだが、そういやポリエステルの微生物分解とかもあるよな、となり、次第にその研究に着手するようになっていった。私はポリエステルの酵素分解を、化学の興味から入ったのではなく、分解の哲学からその世界に入ったのだった。
現在は、PETボトルや衣料で多く使用されているポリエチレンテレフタレート (PET)を実験対象としている。PET酵素分解の学術界は、それなりに大きな世界的競争分野だ。そこでの合言葉は、循環型プラスチック経済の実現である。PET含めたプラスチックは石油から作られる。そして、使用済み製品は廃棄される。そういった石油からゴミ焼却までの一方向の流れを、リサイクルという工程を加えることによって、天然資源使用量および廃棄処分量の双方を減少することができるという試みであって、出来ることなら多くの誰もがその実現を望むものだろう。
しかしこれはまた難しさも含有しており、石油の使用量を減らすには、プラスチック使用を減らすのではなく、車や飛行機などの使用を減らすのが一番である。更には、巷にあふれるプラスチックのリサイクルは、結局、加算工程が多くなってしまい、電力や設備、化学薬品など結局、経済性は悪いというという実態もある。
とすると、一つの答えが、プラスチックはこれまで通り石油から作って、使用済みプラスチックは土中に埋めれば良いという結論に達する。日本でPETは30万トン程度が生産されている。所詮、一年間に大型タンカー1隻分であり、プラスチック製品は放射性廃棄物ほどの悪さは全くないので、それで良いだろう。
ではなぜ欧米では循環型プラスチック経済が推進されているのか。これは、石油を持っている国とはどこなのか、そしてその国々と経済戦争している国々はどこなのか、について考えると、簡単に答えがでる。そう、中国やサウジアラビア、ロシアなどは循環型プラスチック経済なんて推進しようとしているようには映らない。むしろ、安価な石油化学原料を世界中にばら撒くことで、西側諸国の石油化学企業をバタバタ倒していっている。
つまり、循環型プラスチック経済の実態の一つは、環境問題の解決などではなく、それはあくまで建前で、西側諸国が経済戦争的観点から安価な石油化学原料に依存することができないから、自分たちで使用済み製品から石油化学原料を取り出すことが、経済防衛の喫緊の課題だということだ。なので、循環型プラスチック経済なんてものは、所詮、石油化学の工業工程の話しであって、そこには戦争の枠組みの中にあるものだ。
つまり、非軍事工業への加担がしたかった私も、気がつけば軍事工業への加担が始まっているのだった。とすると、循環型プラスチック経済の放棄、もしくは、それに変わる概念であったり、私がプラスチック酵素分解に取り組む意味、活動定款がが必要となる。そこに、藤原辰史が提唱した分解の哲学が重要な意味を持つのではないかと考えている。何より、私の酵素分解研究の初心でもある。
分解の哲学の中では、分解者の重要性が説かれている。私の理解では、ほとんど見かけなくなった街の自転車屋さん。調子が悪くなった自転車を修繕し、部品をうまく転用していた場所である。
今世の中にあふれる自転車のほとんんどは、使用済み自転車として廃棄されるモノである。それは、世にあふれるTシャツなどもそうだ。買ってからいくつか使って捨てられて終わるモノだ。そうほとんどすべての商品が、PETボトルのような存在ということである。
こう考えると、PETなどの汎用プラスチックに、日常的な自転車屋さんのような分解者が現れることで、初めてプラスチックがただ捨てられるモノでなく、人々が大切にし得るモノとしてデビューを果たすことができる。
もし、世の中で酵素分解が簡単になったら、プラスチック製品の部品を再利用することができ、プラスチックがモノとしてはじめて扱われるようになるといえるだろう。つまり、酵素の役割は、循環型経済に貢献し得る存在ではなく、プラスチックをモノとして扱われるための人の生活様式に対する触媒といえる。
つまり私は、循環型経済への貢献を目指すのではなく、プラスチックの再価値化を目指す、プラスチック復権運動の活動家である。分解の哲学的に言えば、地球に生まれて100年ほどのプラスチックにはじめて生命を与えようとしている営みである。との訳で、プラスチック化学繊維に宇宙観を感じた、その道の選択は間違ってはいなかったようである。