【神バイト】「カート回収」の話【3000文字】
仕事内容は単純にして明解。ショッピングモール敷地内のいたるところ(出入口の置き場、駐車場、屋上、となりの焼き肉屋の敷地なんてことも)に置かれた使用済みのショッピングカート。それを20台も40台も重ね並べて、ガラガラと音を立てながら“所定の位置”まで運ぶことだ。読んでいる皆さんも、買い物をしているときに大量のカートを押しているところを見たことがあるかもしれない。
さて、”所定の位置”とは、多数のお客さんがカートを取るべきモール内の中心地のこと。たいていは食品売り場とエスカレーター乗り口の近くにある(ボクはそこを「ハブ」と呼んでいた)。
当然、お客さんは退店のときに出口付近にカートを置いていくわけだから、それを放置しているとどんどん貯まっていってしまう。そしてやがてハブに置くカートが尽きてしまう。あんまり見たことないかもしれないけど、忙しい日なら、何もせずに10分もすればハブのカートは完全に尽きてしまうし、もっと忙しい日ならずっと回収に動いていても尽きてしまう。多すぎるお客さんが同時に使ってしまっているから、各地カート置き場を見に行ってもたいした数は残されていないんだ。こうなるともうお手上げで、ボクたちにできることはほとんどない(もちろん、ボクたちはそれでもカートを求めてせわしなく歩き続けるのだけど)
サブの業務としては「カゴ」回収もある。サッカー台の横に、レジを通った使用済みのカゴが積まれていくから、それをハブのカゴ置き場に戻す。これもカートと同じように、忙しい日にはすぐに尽きてしまう。
まあ、業務の種類数は、一つよりは二つの方が飽きなくていい。
カゴは重ねると重いけど、カゴ回収が業務に無い求人よりは、有る求人の方がオススメだ。
この「カート回収」のアルバイト、何がいいって、第一に人との交流にかかわる面倒なことが起きないことがいい。
ボクたちの使命は一つ。歩き、運ぶことだ。出勤のタイムカードを切ったら、あとは4~5時間歩く。その間中、放置されたのカートやカゴを回収する。それだけ。
レジ操作を覚える必要もないし、難しい接客は要求されない(せいぜい、店内の道案内。分からないことは、サービスカウンターに投げればいい)。あたりまえだけど、金融商品を押し売りする必要はないし、保険の約定を読み上げる必要もない。
部署内の人間関係も、まあ、余計な言動をしなければ問題ない。仕事中はずっと一人で歩くわけだし、同僚にしても、たいていカート回収をしている人の気質というのは、人づきあいにこだわりのないソリストだからだ。
「人が使ったものを片付ける」という、原始的でさえあるほど単純な仕事。でもアクチュアルに人の役に立っている、不可欠な仕事だ。
第二のいいところとして、運動になるということがある。ウォーキングがもつ心身への良い効能は知られているところだけど、確かに体力がつくし、気分も上がる。特にふくらはぎには歩き続けるための持久力がつくし、何十台ものカートをさばくなかで握力も上がってくる。駐車場も回るから日光を浴びられるし、肌で四季を感じられる(例えば、雪の残るスロープでカート達を押し進めるには、それなりの技術が必要だ)。
まあ、カート回収が一日に歩く量は、たいてい「健康にいい」とされている歩数を超えているだろうけど。
もちろん、さほど名声にあずかれる仕事ではないし、アルバイト・パートからは抜け出せない。口さがないひとは「ロボットみたいに、単純な肉体労働をして…」と言ってくるかもしれない。たしかに、業務に自主性や創造性は求められない。あまり無理なシフトを組まれた時には自分が工場の一部品になったかのような卑屈な気持ちにもなってくる。
ただ、なんの自由もないかというとそんなことはない。何人にも侵されない自由な領域がある。それはボクたちの脳内だ。
カート回収はその仕事の特性上、ほとんど仕事内容に頭を使うことがない。せいぜい「次はどこの駐車場に行こうかな」「混んできたから倉庫から予備のカートを出そうかな」といったくらいだ。
残った脳のリソースをつかって、ボクたちはたっぷり空想に耽ったり考え事をしたりできる。
例えば、仕事中にずいぶんと短歌を作ることもできたし、自作小説の展開を考えたりもした。恥ずかしいけど、思い浮かんだストーリーに感極まって涙をこらえながら歩いたことも何度かある。
あとは、1月1日から知っている人の誕生日を数えていった日もあったっけな。誕生日のライトなオタクだから、100人くらいを数えた。まあ、これは仕事が極限まで暇なときにやったことだ。
残念ながら、もとの性格的なこともあって暗いことを考えてしまった日も同じくらいある。時間があるからそれだけ考えてしまうんだけど、まあどうせ家でふさぎ込んでいても同じことだし、実際に仕事で嫌なことをされるよりは嫌なことを考えるだけのほうがずっといい。
だから、アイデアの空想が好きな人や、なにか長期的な計画を練りたい人や、考え事が好きな人には天職と言えるかもしれない。
「そんな職務態度でいいの?」「結局どのくらい忙しいの?」
そう思われるかもしれない。どのくらい忙しいかについては店舗によって異なるので一概には言えないが、まあ酷いところでなければ忙しい時には必要なだけの人員を配置してくれるはずだ。もし気になれば、平日と日曜日のそれぞれについて、回収員がどれだけ忙しそうにしているかを見に行けばいい。回収業務に関して、お客さんの目から隠れてなされていることなんてほとんどないんだから。
勤務態度についてだが、こんなふうなボクでも結構マジメだと頼りにされていた。空想はたくましいし、仕事がない平日の夜なんかには倉庫で10分サボっては店舗を一周回収して、というのを繰り返していたが、それも度を越さなければ問題ない。暇な夜には、屋上駐車場の影に隠れて星空を眺めてもいい。
お客さんが困らないように。他の店員が困らないように。そういった最低限の誠意を持ちながらなら、多少サボったってそれをとがめる人間はいない。
と、ここまで「カート回収」業務にかかる人を「ボクたち」と呼称してきたけど、実のところ、ボク自身はもう3年以上前にこの仕事を辞めている。
その理由には、正社員を考えないといけない年齢ってことや、コロナ禍で増えた消毒業務(最近は緩和されているようだ)に疲れて、ってこともあるんだけど、一番大きな理由はなにかと問われれば、それは腰痛が限界になったからだ。
もともと痩せ形で筋力に乏しく、姿勢もよくなかったボクは、月100時間で働く二年半のうちに、三回のギックリ腰を経験した。すべて仕事中で、一回目が一番痛く、二回目、三回目はさほどではなかったが。
漢字で「腰」をにくづきに要と書くように、まさに腰は人体の要なわけだけど、若いうちに腰痛と縁を結んでしまうことは今後の人生で結構大きな負債になる。実際、カート回収の次はデスクワークの事務職で働いたんだけど、一日5時間ですら毎日腰痛が蓄積されていって、家では大半の時間寝っ転がることになった。
今後この仕事に就きたいと思う方は、自分の筋肉量や腰の状態と相談してほしいし、Wワークなどで月の労働時間を少なくするのがオススメだ。
やや唐突だけど、最後に、この文章が社会復帰の一歩目や転職など働き方を考えている社会人の一助になると嬉しい。