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【エッセイ】大人になれない26歳、AT免許合宿に行った【2160文字】

※つまらないことです。


成人式に遭うにあたっては、人によって三通りの対応があり得る。

1.行けるので行く
2.行けるけど行かない
3.行けないので行かない

六年前のその日、イキッた僕は「2.行けるけど行かない」を選択したつもりで、移動費と時間の無駄だと、非合理な式典だと。
でも、今はわかるんだけど、あの時の僕は「3.行けな」かったんだなぁ…いろんな面で。


そんなこんな、自然鎮火した燃えカスは湿って26歳になりまして、やや唐突に免許合宿に行った。と言って、特にそれを掻き立てられる理由があったわけではなく、二十代前半までの僕にはそれを取らないイカした理由がいくつもあったような気がするが、たいてい運転免許というのは多くの人にとって理由もなく年齢が来たら自然と取るもので、翻って、遅らばせながら僕もその年齢相応の発達に達したのかもしれないし、ただ免許がない自分に耐えられなくなっただけな気もする(タイミングよく、就労の切れ目もあった)。

普段旅行もしないので、せっかくなら遠くに行きたいと、足を踏み入れたことのない四国地方、高知県にある車校を選んだ。(カツオのたたきは、プロフィールの「好物」欄が変わってしまうほど美味かった。車校の卒業後の一度だけ、駅前の居酒屋で、塩とポン酢の二種類。薬味がたっぷりで。)


運転はあまり向いてなかったが、まだ生来の小器用さが通用する競技だったようで、なんとか延泊もなく14日で卒業した。(26歳にとって大事なことのほとんどは、小器用さが通用しなくて、困っている)

運転は楽しくなかった。教官が横にいて決まったコースを走っているかもしれないが。
自操して自走する機械だが、車線からはみ出さないように慎重にハンドルを傾け、速度を守るためにアクセルを微調節していると、自分がベルトコンベアーで運ばれる工業製品のような気分になった。(ドライブが趣味な人すいません、初心者の戯言です)(それに対して、原付講習はめちゃくちゃ気持ちよかった。もちろん、速度制限などルールはいくつもあるが、それでも車線幅よりずっと小さい車体で風を感じることは、自由な感じがした。教習所内のコースを周回するだけだが、カーブに合わせて体を傾けるたび、鼻歌がもれそうなくらい)

道路交通法 第一条
「この法律は、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図り、及び道路の交通に起因する障害の防止に資することを目的とする。」

学科で習う、道路交通に関するルールたち。その大前提に、「円滑」の文字がある。ただ安全なだけでなく、交通を滞らせないような滑らかさが必要と。

入校してすぐ、この「円滑」という言葉に、とても脅迫的なものを感じてしまった。他の交通に遅れてはいけない。運転者は他の運転者とスピードを合わせないといけない。

もともと、車を運転している人を見ると、「大人だなぁ」と思ってしまっていた。成人になって6年経っても、同世代に対して自分が遅れているという後ろめたさが常にあって、運転免許を持っていないことはその大きな要因の一つだった。


数年前の元カノに、「髪を染めてみたら、大人になった気分になれるかな」と訊くと、こちらを見ずに「そんなんで変わるもんじゃないよ」とあしらわれたときには、彼女は僕に冷めているようだった。


車内にいる人は、窓や車体に阻まれてほとんど外からその容貌を知れない。自分が路上を運転していて、前方を走っている車の運転手は、年上なのか、年下なのか、何歳差なのか分からない。そして、向こうからも僕が何歳なのかはわからないし、後続の車からも、対向の車からもわからないだろう。

それでも、運転者は全員で「円滑」を保たなければならない。スピードを保ち、ウインカーをだしたり色んなランプを灯したりして。

運転していて次のことを発見した。運転者は交通のなかで「年齢」を失い、押しなべて大人として振る舞い交通の円滑を守り、自らを目的地へ運ぶ。
その中で「大人」としての自我を確かにしていくのかもしれない。


という自論を言っても、一瞥もなく「そんなんで変わるもんじゃないよ」とあしらわれるかもしれない。


僕は、悪意があるわけではないのだが、社会の円滑を妨げてしまう。帰省を嫌って両親や親族に「あいつは今何をやっているんだ」と訝しがられている。出会う人々に雑談がてら他愛もないことを質問されても、考えすぎてうまく答えられなかったり、変にしゃべりすぎてしまったりする。どこかで何かの店員に用があるときは、それこそ円滑に進むように、一通り頭の中で組み立ててから話しかけるが、どうも僕のしゃべり方と挙動はおかしいようで、音響トラブルでグダグダなピン芸人を見るような視線を向けられる。


今後免許を取り、やがて運転を始めたとして、僕が持っている遅れているという後ろめたさや社会の円滑を阻む振る舞いは改善されるかはわからない。
それには運転のほか、「正規雇用」をはじめとしたもう幾つかの段階があるだろうし、もしかしたら何をクリアしても一生そうかもしれない。

ただ、車校の卒業にあたっては「あ~あ、運転知っちゃった」という、つまらない感傷のようなものがあって、それをカツオのたたきと当地の日本酒で胃に嚥下できたことは、無駄ではなかった気がする。


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