【読書録】悲しき熱帯1
読書は続けていたが、久しぶりの読書録となった。思ったより進んでいないことは事実だ。どうということはないけれども。
中央公論社、中公クラシックスではない、単行本で出た、日本語での初出化はわからないが、版の、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』を読み始めた。坂口恭平が、彼の独特の行動をはじめる、その原動力の一つとなったのが本書だと言い、また中沢新一がことあるごとに参照している研究者でもあるから、期待は多牌である。
昔の、今でもあるけれども、日本の研究者でもあり翻訳者でもある川田順造氏の、レヴィ=ストロース賞賛と、ひたすら褒めちぎる対談が冒頭にある。
こういうのは苦手である。年を重ねた日本の研究者って、共通して、独特の臭気を放っている。学者ってこんなものだということになっているけど、人間として、標準ということで良いの? と思う時がある。
対談に、レヴィ=ストロースが一言言うと、それに対して二字下げで訳者の解説を同じ分量か、それ以上の注釈を訳者が入れるのである。これこれの発言の背景はなんであり、どうの……。
そしてその真骨頂が、この翻訳者が、レヴィ=ストロースに、『悲しき熱帯』という、文化人類学という主要なフィールドではない、回想録のようなものに対して、後半のどこどこの主張は私は違うと思うんですが……と手紙を出して聞き出している所である。
それに対して、レヴィ=ストロース先生は、「あれは私が仕事の外で書いた回想であり、当時思っていたことを書いたのだから、そういう風に間違いであると思われるところも当然出てくるかもしれない……」と、悄然とした風な返事を書くのである。
内心、「何をいちいちいちゃもん付けるの、ふん」と思ったに違いない。対談の中でも、「先生のアジア解釈はどうも違うような気がするのですが」というニュアンスのことを聞くのである。「だから、あれは回想録として書いたんであって……」と、同じような返しをする。かつて書いたものを根掘り葉掘りいじくられる気分とは、どれほどのものなのだろうと考えざるをえなかった。