【小説】電車で寝ていた男

 想像でしかないが、夜の電車の中で、床に寝ていた男は、そのうち目を覚まして、歩き出したのだろう。もちろん、直接見たわけではないから、確かなことはわからない、まさか電車内にある広告とともに、暗い車庫に納車された、などということはあるまい、仮にあったとしても、十何時間もそこに生きた人間がいられるはずもないから、仮に、考えにくいことではあるが、完全な暗闇で男が目を覚ましたとしたら、大きい音を立てて、戸を叩くなどして助けを求めたことだろう、そんなことにはなるはずもなく、だって納車する前に、何度も、中に人、特に乗客がいないことを確認してから仕舞うに決まっている、なぜそんなに何度もしつこく確認するのかといえば、過去に何度か起こってしまった悲しくもやり切れない事件からの反省、ということもあるだろう、しかし、だとすると、過去に起こりえたことが、今を境に、今後永劫にわたって起きえない、とは言い切れないのではないか? という気もしてくる、しかしそれは、そう想像することは、本来全幅の信頼を置くべきである駅員さんに、ごくわずかであるとはいえ、不信の念を差し挟むことと同義であり、想像することすら固く禁じなければならない、だが、想像というものはそうやって抑え込まれると、パンタグラフの応力のように、はね上がってより強い創造へと駆り立てられるということも忘れてはならない、私は、その男が、ごく平穏に、よくあるような終着駅で駅員に声を掛けられ、多少の驚愕はあろうが、それらも含めて日常に回帰したという感じを受ける、ある場面を想像した、しかしその村には男が思う最低限の宿泊施設、とまではいわなくてもカラオケとか漫画喫茶とか、とにかく建物の中で始発が来るまで一晩過ごせればそれだけでよいと考えていたのにそれすらなく、殺風景な一本道の突き当りに、いつの時代かわからないような民家が一軒だけあってその中で老婆がゆっくりと、蝋燭の光を頼りにして鉈を砥いでいるだけ、というありさまで、男は仕方なくその民家の戸を叩いたのだった……男は本当の暗闇で目を覚ますというのははじめてで、何かのイタズラにでも遭ったものと思っていたらしい、しかし何も起こらなかったのでパニックを起こしかけながら、手探りで身の周りのものを手繰り寄せる、恐怖からか時間がどれくらい経ったのかわからなかったらしい、ほんの数秒にも思え、また何時間かにも思えた、探す間にメガネを踏み潰していたようだがそれにも気付かなかった、スマートフォンさえ見つかれば、当面は何とかなるのだが……自分のリュックの中をまさぐるが、直方体のものが多過ぎて、どれがスマートフォンなのか全く区別がつかなかった、その間に本物のスマートフォンは、蟻にゆっくりと食われていてもう半分も残っていなかった。

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