【日記】変拍子
小説の理論を裏から知りたくてヌーヴォーロマンにハマるという行為は、音楽における拍子の理論を知りたくて変拍子の音楽や演奏にハマるのと同じことなのではないか、とふと思った。変拍子の音楽を聞いている時のことだ。耳は、たぶん大方の人が、あまりに4/4という拍子に慣れすぎている。しかし、元来はそれを成り立たせる広義の力学というものがあり、柔軟な拍子を共有する音楽は、やはりそれに基づいて作られていたりする。いや、即興的に演奏される音楽について、作られるという言い方は、なんとなく違和感がある。そういう、根幹的なものは、素朴ではなく、原始的でもない。むしろ、これで言うと4/4的なものの方が、ルールが多いにも拘らず、情報が少ない。
常識というものは、それを成り立たせる膨大な文脈があるにも拘らず、それがまるで存在していないように機能する。そこから解放されようとするのは、一種の恐怖ですらある。だが、そこにしか自由はない。何を大げさに、と思う向きも、もしかしたらあるのかもしれないが、私はそう信じている。