【日記】トルコ史について
引き続き、トルコの歴史について、調べている。
そのきっかけが、単にトルコの大統領の選挙であるとは、改めて驚く。
トルコの民族性の根源は、どこにあるのか。
同じようなことを、ドイツの民族に適応して哲学をしたのが、ハイデガーだと思う。ドイツ人とは何なのか。いや、人が自分の死と同じくらいの価値づけを行えるのは、民族性に準じて死ぬことであると……その辺は今回の論点とは違う。
トルコの民族性の根源は、どこにあるのか。
探ってみたところ、そんなにはっきりした地点は見当たらないのではないか、というのが、浅薄な自分の調べものの結果として提示できるところである。
トルコ、という国の境界が、仮に、仮にであるが、地理的な境界であるとして、いわゆる「オスマン・トルコ」という、国の大きな流れとしてのトルコの国境は、もしかしたら、他の国とは匹敵するものがないほど、大きく広がって、そして縮んでいる。
縮んでいるのは、現在の国境である。
これに対して、いや、国のあくまで中心はイスタンブールであるとして、その他の地理的な境界を、一時的な侵略の結果として副次的な要素として見るのであれば、やはりトルコのアイデンティティーは、イスタンブールの存在であると、アイデンティフィケーション出来るのかもしれない。あるいは、まあ地理的な境界の増減を全く度外視して、民族の血である、などとして別の次元の境界を策定するのだとしたら、その道筋は通るのかもしれない。
では、人間としてのトルコ人という「血統」は存在するのか。
僕は、どうも歴史を読むと、怪しい気がする。
オスマン・トルコという国、あるいはその歴史は、すでにあるアナトリアの地に住む人の侵略史として、形作られているのではないか。
オスマン帝国は、トルコの地にいた何ぞかの民族をアラビアの種族が侵略して、形成された。その、トルコの原始民族が、何者なのか、今では詳らかではない。オスマン帝国時代を通しても、明確に文書化した歴史がないのかもしれない。その辺は、まだわからない。
オスマン帝国は、歴史の最盛期を境にして、衰退していって、今のトルコという、中心に切り詰められた国家に変化してしまって、現在の姿になった、というのが現状での僕の理解である。
だから、元からアナトリアに住んでいた人、そこを侵略して千年近く居座ったオスマンの人々、それから近代に至ってそのアイデンティティをなくし、近代人としていた人、それらの大きく分けて三種の人が歴史的にはいることになる。
そこに、すべてを統一する流れを見るのは、少し無理があるのではないか。
そんなもの、別に見なくてもいいのではないか。
民族性の根源とか、別になくても、強い民族性は、今あるトルコの地に確かにあるのではないか、と僕は思っている。
万葉仮名は、今から見ると信じられないほど、文化のミクスチャーに依っている。
文字の根幹は漢字であり、中国に起源をもつ。しかし、音声の言語としては、大和言葉である、漢字とその読みとは、一対一対応を持っていない、のみならず、その対応をあざ笑うかのように、対応する字を、歌でも歌うように、コロコロと変えている、もしかしたら、その、言語としての読みを変えること自体をもって、芸術の表現としているかのような、不羈の自由さをもって、ものを書いている。
歌う人、中国、大和、そのミクスチャーで、万葉集はある。
ルーツを探って、統一理論で言う所の唯一依って立つところのモノリスみたいな象徴を探りたい人にとって、これほど繁縟な、わかりづらい、なんだか拍子抜けすることはない。
人はみな、何らかの結論、ああ、これが全ての根源なんだ、という明らかなものを求めたがる。
しかし、現実はそうなっていないし、言語というのはそういう事態自体を明らかにするし、民族というのはそうなっているものだと僕は思うし、トルコの歴史の中にも、その多数性というものが刻まれているのではないか、と思っている。