【日記】発言、ひとつの逆巻く風
例えば「良いことを一日ひとつしよう」のような、誰がいつ言い出したというわけではないけれども、いつの間にか知っていて気がついたら使っているような、そんな典拠のフワフワした言葉がある。こういうものは、えてして目的もはっきりしないことが多い。
我々は基本的には、それぞれ持っている名前のもとに、その責任を負って話していると思っている。偉い人ではなくても、誰々曰わく何々と、言うことができる。そして、その「誰々でなければ」という、発言の唯一性が高ければ高いほど、価値のあることを言えている人だ、ということになっている。
逆に、上に例をあげたような、「残り物には福がある」のような、誰が言おうと構わないようなことは、価値がないとされている。
本当にそうだろうか。
我々の深層には、ほとんど人類で共通であろうというような基盤があり、遺伝子と同じように、見た目の多様さに反してその個人差が極端に少ないようになっているのだろう。そして、その次の層に、民族や国の単位で共通しているであろう層がある。それから、家族や家系で共通している物もあろう、その上に、個人の考え、言葉というものが乗るのである。
明確に、フーコーの考えから引いてきているのは承知の上である。
しかし、フーコーの厳密な定義に従わないのは、不誠実であるだろうか。
ともかく、たとえば、民族が少数であり、民族よりも家族の数の方が大きい、考えにくいことであるが、そうした事態を想定すると、民族の中に家族が存在するということではなく、それぞれの比率が違い、内包とは違うものとなる。それらも考慮すると、この言語の生成のレベルというのは、玉ねぎ状、同心円状というよりは、いくつかの線を、複数次元の一つの次元として見て、格子の中に個人がある、という見方に相当する。
個人は、その格子の中の、ある点としてプロットされるわけである。
アンケートの集計を考えると分かりやすい。私は男か女か。二つの値を持つ、離散的な直線上の一つの点として、「性別」次元は個人に割り当てられることになる。あるいは、もし、男か女かのどちらかに分類されないというのであれば、男と女の中間点に、どちらでもない、という日を割り振るなり、男を愛することが出来るけれども自分は男であり女の身体性を持っている……等というのはその間の何分の何の場所を占めることによって、「性別」直線状のどこかの点にプロットすることが出来る、というわけである。
民族、種、国家も同様である。
ある四次元だか五次元だかあるいは次元であると割り切れない空間のどこかに、個人である誰かは、点としてプロットすることが出来る。
話が逸れたが、人の発言というものは、自分個人でするものと思っているが、その膨大な軸、次元、その風の逆巻く三次元でも四次元でもない、よく分からない空虚の多い空間のなかの一点の中で叫ぶ、叫び声であるかもしれない、そして、その叫び声は、ある点から音がするぞという以外の情報を、大まかに言えば、持たないかもしれないのである。
一方で、日本人であるならたいていこのフレーズは知っているはずである、という、ことわざのような、非属人的な言葉の渦のようなものは、そのプロットされた点とは別に、何か、太くてとぐろを巻いたような、空間を圧するような風の流れであると、その空間を想像した時には、言えるのではないか。