【日記】スピノザ、自由さは、可能性の束の多さではない
スピノザのいう自由とは何か。
目の前に、年に五回は旅行に行くという、見た目ビンボーそうな人がいて、今まさに手持ちの旅行カバンで出掛けようとしている所に出くわすとする。すると、我々は
「自由な人だなあ……」
と、嘆息するはずだ。
この時の自由というのは、果たしてその人が、取り得る状態を多く抱えており、今見ている光景は、そのひとつだけれども、取り得る選択肢の多さ感じて言うのだろうか。
そうではないかもしれない。彼は、他に生きられる選択肢が多くあり、どれも選べたから自由だったのではなく、今まさに実行していること自体が、どこか自由を含んでいるからではないだろうか。
貧乏であるにもかかわらず、何かの情熱にかられるようにして、しかしそれを周囲にはおくびにも出さず、飄々としたなりをして、どこかに行ってしまう。この強さこそが、彼の持つ自由である、それをなぜ「自由」というのか、普通は、あれもこれもできるということを自由と呼ぶだろうに、なぜだろう、だが、この「なぜ」という言葉は、彼の前では、南国の風に流されるように、どこかに消えてしまう、そうして彼は選択肢を持たずして、とにかく自由である、そういうものなのかもしれない。
細野晴臣の「はらいそ」を聞いていて思った。