【日記】ヨッパライの天国

 新潮の偶然昨年の七月号を借りたので、目にすることになった、坂本龍一の「ぼくはあと何回月を見るのだろう」だか、同様の意味を有する言葉を題名に取った、エッセイの連作? の初回を見ることになった。
 この後、彼がこれを書き続けているのか、今どういう状況なのか、まだ知らない。
 今、私はその意味で、二〇二二年の、七月の幾日か、厳密に言えばこの雑誌が手に入る時点だからもう少し手前になるのだろうが、それが一ヶ月前なのか二ヶ月前なのか、そもそもこの雑誌や週刊誌がその当月ではなく前月やその前から配布されるという文化になじみがないどころか、直感的な時間軸が著しく狂うのでやめてほしい文化であるのではあるがそれはともかくその六月か七月か、もしかしたら五月の終りであるのかもしれないがその時点で知り得る情報しか知らない主観に、少なくとも坂本龍一については置かれている、その時の時間軸にまるで閉じ込められているようになっている。
 思えば、文学の醍醐味って、こういう所にあるのだろうか。じゃあ、リアルタイムに、最新の作家の何かを読んだとする、それにしたところで、実は、それは長くて一年とか半年とか、すごく急いだペースでも一ヶ月とかのブランクを挟んでいるのであり、厳密には現在その人が書いたものではない、それがフィクションだったとして、それがその人が書きうるフィクションであるのは、いま現在のことではなく、少し前の時間のことであるので、読んでいる私は、なぜか、ネットで何か読んでいたり、電話やラインで知ることのできる性質のものではなく、少し前の、いくら薄いとはいえその紙の色と同じように漂白されたその時とは少し色が異なる薄いセピア色に染まったある固定された時間に閉じ込められるのだ、ただ、その閉じ込めに私は自ら飛び込むのであって、何というか、能動的な閉じ込め空間であるとか、言い方はわからないのだがとにかくその空間を私は泳ぐのであると宣言してからそこに飛び込むといった感触が伴うのが面白い。
 坂本龍一の場合、今年の一月にあった事件が、まだ色濃く、その影響の端にいる自分みたいな人間にも多少のショックを与える事件、というには順当な時間の流れにおける出来事だったので、単に出来事といえば良いのかもしれないが、とにかくそれが真っ先に想起され、それへのリアクションをどう取ったのか、そんな野次馬的な興味で見ることが憚られるくらいには魂の揺れみたいなものが起きたことが想定されはする、のだが、それを知ること、つまり彼がそれに対してどうリアクションしたのかどうか知ることは、ボタン一つ、誰か別の物知りなアカウントにメンションを送れば、それでもう知れることではある。だが、私は今、能動的に、二〇二二年の七月に閉じ込められているので、その中のもどかしさのレンズから、この出来事を眺めるということも可能なのである。
 未来からであれば、過去のどんな感情にもアクセル出来うると、その自由を私は言いたいのであろうか。であれば、まあ、一見素晴らしくも見えるのかもしれないが結果としてはくだらない感じ方の一つにカウントできるのかもしれない。
 私は今、痛烈に酔っている。

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