【日記】何度目かわからない電子書籍批判を私はしたいだけでこの記事を書いたのか?
暮らしぶりがまた変わって来た。身の回りにいる、よく話す人物も、目まぐるしく変わる。これが、自分の思考に影響を与えないはずはない、それがどれだけ微妙な変化で、その動かなさに驚くとしても。
とはいえ、大事なのは目の前のことであり、生活上で何をこなすかである、それがなければ、一時間でもじっと座って、本を開くということも出来まい。
またそばを打った。数食分であるにもかかわらず、もうそば粉を使い切ってしまったので、ネットで注文してまた作る予定である。
雪が何回か降って、ほとんど積もらずに終わった。
去年のコロナ療養の時のことを、少し思い出した。
動画編集の技術を、少しだけ身に着けたが、結局必要なしとなって、お蔵入りした、だいいち編集ソフトを持っているだけでお金がかかるという。
普通、今自分が持っている道具って、毎日お金がかかるとかいったことは、保守的作業が必要なものでないかぎり、ないではないか。楽器を買う。たまに弦を交換するとかはするかもしれないが、持っていて、やれ毎月いくらだ、毎日いくらだということにはならない。それが、パソコンの世界においては、少し凝ったことをしようとしたら、全部サブスクリプションだ。なんで、手に馴染んだ道具のような、気安さや、自分のものであるという所有感を持たせてくれないのだろう。
見るもの、読むものだってそうだ。比較的買いきりに近い電子書籍にしてからが、その持っているものは本の本体や、コンピュータ上であるとはいえ、ひとつの実体(メモリ内に、確かに存在するひとつらなりのデータである)というものではない。ある権利だ。それを開く権利。毎日、それを読もうとするのであれば、その権利が確かに自分に存在するのかどうか、たえず問い合わせられるのである。枕頭に置く書物にそんなことが存在するか?
もう自分で書くわ。そんな気にもならないか?