【日記】文字が消える
ここしばらく、というとたぶん電子的に日記を書くことになった今年の九月からだが、主にキーボードでしか文章を書いておらず、もともと自分でも信じられない量、手書きで文章を残していたのだが、その習慣が変わったので、文字を忘れ始めている。
そして、そのパソコンのうちでも、かな入力をメインで練習しているものだから、ローマ字入力も、忘れつつある、こちらのほうは、完全に忘れたというほどでもないが、入力ミスが明らかに多くなっており、今までにない不思議なミスの仕方をするようになったのだが、おそらくは無意識のうちに、かな入力が混在してしまっているのだろう。
人間というのはかくもままならないものなのだろうか。しばらく練習しないでも、覚えていてほしいものだ。せっかく、長期間練習していた成果がこうも簡単に流れて行ってしまうと、徒労感が漂う。そして、常に何かの技術を持っているといえるほどの状態を維持するには、本当に、絶えざる、というのは一日も欠かすことのない練習が必要なのだと思うと、人間、生きているだけで労役だと思わされる。
本当に、リハビリが必要と思えるくらいになったら、また手書きの文章に戻すかもしれない。しかし、手書きで一度書き始めると、データに起こすのが本当に億劫になる。
あるティックトッカーが動画の中で書評をして、筒井康隆の「残像に口紅を」が爆売れしたというのは知っていたが、そのティックトッカーを批判した書評家がいて、一時炎上したというニュースが最近入って来た。誰だったのか知らなかったけれども、今日、その人が豊崎由美だということを知った。それほど悪い人だとは思っていなかったのだが……。
「ティックトッカーごときがちゃんとした書評できるの?」という語調だったと思う。それを受けて、名指しされたティックトッカーが、書評をやめるとツイッターに書いていたらしい、しかし豊崎氏は悪びれもせず、「これくらいのことでやめるということは、それだけの覚悟しかなかったということだ」と、こちらのほうは先ほどの要約より自信を持って、こんなことを言っていたと言える。
いや、ティックトックで書評をするということを、全力で擁護したいのではなく、浮薄な興味で、と言いたい気持ちもわからないではないが、それでも、事の善悪とか、豊崎氏の言う覚悟とかほんとの書評とかそんな次元よりも、書籍という市場とネット動画やSNSという市場というものの差は、もう完全に逆転していて差が開くばかりだ、とは思う。書評って、高尚なこともあるかもしれないが、要は広い意味でも市場を広げる運動の一つだと思うので、影響力という意味で、負けているのなら、それは一面では負けていると認めなきゃいけないのではないだろうか。
そして、偶然だけれども、リツイートで流れてきたティックトックの動画で、ベケットの『モロイ』の紹介をしていて、「石が好きな人は、この小説を読むべきです」なんて、半ばふざけて紹介してるんだけれども、この人が本当に『モロイ』を読んでこの書評をしたのだとしたら、その知性は相当なものだと思う。コアなものをポップにした、という意味では、本当に価値のあることをしているとも思うし、こういう、論争に対して斜めを走る、爽やかな回答もあるのかと、目を開かされる思いだった。
やっぱり、本というものは、色々なやり方、色々なレベルで紹介されるべきだと思うし、そこに「書評」という作品としてのルールを守ってやるだとか、あまりこだわってもしょうがないのではないか、とも思う。あれだけ書評の上手かった、ヴァージニア・ウルフも、いかにも書評らしい書評を皮肉っていた気がする。