【日記】3/31-4/2
昭和レトロ
昭和レトロを主題にしたテーマパークに、この間遊びに行った。商店街の店員を演じている、劇団員か俳優みたいな人たちが、道行く来園客に、分け隔てなく話し掛ける。暖かきいい時代を演出しているわけだが……
むろん、自分がそこまで禁欲的な思想を持っているわけでもないけれども、視点を少し寛容ではない方向に持って行ったとすると、これが演出であるというクッションを挟んでなお、認めがたいコンプライアンス上の問題を含んでいると捉える人もいるのだろうか、と思った。
街路の端々に置かれた掲示板には、当時のテイストを忠実に再現した、だがパロディーと分かるくらいには誇張している広告が、いくつか貼られている。頭痛薬のケロリンや、映画ポスターといった風情で、その中にタバコ屋の広告があった。
園内は実際には禁煙だったか、少なくとも喫煙所以外では吸ってはいけなかった。現代では当然だけれども、その広告を見たら、認知が少し歪んだ心地になる。気持ちよさそうにタバコを吸っている広告、そう言えば、今はもうこんな広告は許されないな。CMも放送しなくなって何年も経っている。そんな感慨を生み出すために、そのタバコのフェイク広告を作成したのだろう。
だが、それは、たとえフェイクだと明らかな場合に、本当に「許されて」いるのだろうか。タバコを気持ちよさそうに吸う男性の広告を、実際に子供たちがここに見に来るわけだ。本当に広告として機能することは、十分に考えられる。
閉じたスペースだからといって、フィクションだからといって、全く外部に機能しないというわけではない。
圧倒的なものの力を認める
山本浩貴の『新たな距離』を読んでいる。
冒頭一篇は、そしてたぶん本書全体も幾分かは、創作へのスタンス、小説というものの立ち位置についての、長々とした方法論の説明のようなものであるという感触がある。
悪い見方をすれば、同じ場所で足踏みをしているようにも見える。
何がそうさせるのか?
おそらくこういう認識からなのだろう。
フィクションは、何重にもカッコの中に括られて入っている、世界とか経済とかという圧倒的な流れの中で翻弄される、流され方を間違えば容易に絡め取られてしまう存在であるという認識がある。
スタンスを全く決めずに書き出してしまえば、ここで言っている、「自分自身を磨いてから語れ」という、SNSに表出させる自己を作り出す強迫のようなものに巻き取られてしまう。
そんな事は自分に限っては起きないよ、と、おそらく概要だけ聞いた人は思うだろう。圧倒的な力など全く信じない人だ。が、そうして見ないようにしている人は、簡単に絡め取られてしまう。
朝、気まぐれに本棚を開いてみたら、ミシェル・レリスも似たようなことを書いている。
当時には、戦争という、やはり圧倒的な力が働いている前で、以前のように書くことに意味があるのか? ということは、全く自明のことではなく、何遍も念入りに自分の立ち位置について確認したうえで、書かなければいけなかった。当時の戦争からは、少なくとも何十年も経過している。だが、世界に、ものを書くということを無力にしかねない、圧倒的な力が渦巻いている事には、おそらく変わりはないのだろう。それに対してどうするか、それこそいくら考えても答えの出るものではないだろうが、まずは、そういう力がたしかに働いているということは、直視し、その上で何かを書かなければいけない、何かに働きかけようとするのなら。