【日記】自分の体調についてわかるか?
コロナ禍において、誰しもが気づいたのではないかと思うが、自分の体調について、自分で悪いとか、良いとか判断することがどれだけ難しいかということを、改めて知らされた。
これは、文学と医療、どちらにも関わってくる話だが、どちらにしても真実であると、僕は思う。
別に大した話でもないので簡単にいえば、それは自己参照というものの難しさである。自分で自分のことを判断する、そんな、それ以上自明なものはないだろうと思わせるだけに、それ以上難しいことは存在しないだろうと思わせる難しさである。たぶん、本能的に拒否する人の中でも、記憶の奥の方を探ると、どこかに思い当たる節があるのではないか。
朝起きる。夜間、部屋が乾燥していたから、喉がカラカラになっている。しかし、その粘液の凝集、それによる、本来は生理的である反応、それからその感触と病中に覚えていた感触との一致、昨日ネットで見た記事に書かれていたこと、それらが大脳でぐしゃぐしゃにかき回された結果、それが自分の中に起きている炎症反応であるのか、それとも細菌類に引き起こされた免疫反応であるのか、単に喉のぺたぺたした感触であるのか、早朝のいつもの感覚であるのか、そういったことが、断言できなくなる、もともとはそれらを画然と分けて考えられていたことが、コロナという意識、それが死につながるという恐怖だけで、わからなくなるのである。
たぶん、恐怖を感じるということに、人間はやはり、長期間は精神的に耐えられない。なので、そこに、より強い力で覆いかぶせるように、それを否定する力を加えて、反対の方向に、自我を、意識を向けるということも、大いにあり得ることだ。その場合、意識は、二重に、現実からのつながりを失うことになり、かつ、自分が見ている現実は、その形をしていると、思い込むことになるだるう。
人間の、自分の判断をごまかすための力は、とてつもない。そのことは、みんな理性のみによって行動できない事、あるいは本来はそうなりたいという憧憬の力から、明らかにわかると思う。だから、体温が今何度であるかとか、今日は誰とすれ違ったとか、そういういろんな要素が邪魔をして、普段そこまで疑問に思わなかった、一日の自分の咳の回数とか、足の動きにくさとか、熱っぽい感じとか、そういうことを敏感に感じ取ってしまい、もしかして、と思ってしまう可能性が、多くあるのではないか。翻って、自分の体調に関する感覚というのが、いかに自明ではなく、頼りないものであるか、移ろいやすいものであるのか、自覚したのではないかと思う。
残りは、もう、科学的事実しか残されてはいないのだが、それでも、体温が三十七度超えていたら、普段から体温が高めな人だとか、偽陽性だとか、その事実をまた覆い隠すような、あいまいな領域を探し、そういうことに人間は長けているのである。