【日記】2/27から30

演奏会

 とある演奏会で、ウクレレの演奏をした。ここが拙かったなあ……などという反省は、人並みにあるけれども、総じていい経験ではあった。
 マイクの前に立つということは、いつ振りだろうか。思い出せないくらい前になる。
 軽食付きだった。ローストビーフみたいな肉が二枚、レタスに乗ったものと、ローストチキン、これはひと塊を二等分したようなものだった、何かのスパイスに漬けている感じがした、それから謎の赤い細かいダイスのようなもの、これを今まで食べたことがなかったので分からないのだが、いわゆる「デーツ」というやつだろうか。どうもそんなような気がする。もう一つあったけど覚えていない、それらが、チョコチョコと大皿に乗っていた。ぜいたくな一品だった。出演料は、こちらが払ったのだが、その食事代も含んでいるのだろう。
 子供や、年配の人なんかも壇上に上がった。講師の人達が、アシスタントをして、バンド形式で演奏する、という人もいた。ドラムだけが叩けるけれども、他の楽器がなければどうしようもない、といったような人が、それを選んでいたらしい。
 僕は、ウクレレソロといって、歌すらもなく、全くウクレレ一本で完結する演奏形態をとっていて、その他の形式は、今のところ考えていない。しかし、今日の演奏を見て、考えさせられてしまった。音の圧力とバラエティは、確実にバンド形式の方が高い。ただ、それはそれで、リズムの共有がきっちりできていなければ、曲として成立しにくいという欠点もあり、痛し痒しではあるのだろう。自分がこの形式でやっていくには、その音の圧力のなさと、バリエーションというものを、意識して生み出さなければいけないというわけか。
 半分か、半分過ぎたところまで見て、その会をあとにした。もともと、どこまで見ていても自由なものらしい。

山本浩貴『新たな距離』

 ツイッターで、自分のある程度信頼している人が、この本について触れていたので、気になって予約して郵送してもらった。
 これは、批評? 全く立場など知らずに買ってしまった。だが、最初の30ページほどを読んでみて、いろいろな感情は浮かび上がるが、結果としては買ってよかったなと思った。
 保坂和志、彼が生み出した文化圏は、賛否はあれど、広いものだった。僕は、まさにこの2000年から少なくとも2015年くらいまでは、完全に彼の巻き起こしていた風の中に巻き込まれるように生活していた、要は小説が書きたくて、彼の言う小説論や実作に従っていこうと思ったわけだ。
 その後、その一途すぎる行き方について、相対的視点を持つ何人かの友人に出会い、多少考え方を変えることになった。それから現在まで、断続的に彼の生み出す本を読んではいたけれども、当時の、陶酔とも言えるような没入感は既に感じていなかった。
 だが、振り返らずにそのまま進んでいけるような人でもないと感じていた。

 保坂イズムについては、そのように心酔する人が多く、直接的言及を避ける動きさえ、僕は感じていた。実際にあったかどうかはわからない。がしかしともかく、著者の山本浩貴という人は、保坂イズムに、かなり前から正面から取り掛かっていて、なおオリジナリティを保つにはどうすればいいか、どう彼の理論を言い換えればいいか、など試行錯誤を、現在まで続けていた人らしい。そう、保坂イズムは、それが強いので、そうしながら、なぜ自分がそれをしなければいけないのか、どう読み換えるのか、そこのところに苦労するタイプの形式を持っていると思う。また、そんなこと徹底して出来るのか、と思える、修行みたいな事もこともなげに提案する。
 実際にそうするのか、どこまで取り入れるのか、そのバランスが大事だ。山本さんが、それに成功しているのか失敗しているのか、それが生み出すに値するものを生み出せているのか、などということ、これこそを、本書から読んでいかなければいけない、と感じた。彼が強く保坂イズムについて総括しているから、こちらも、相応の読むことをもって応じなければいけない。
 今日までは、ある意味で他人事のような読書が多かった。勉強的、ともいえるかもしれない。だが、そういう感じとは違うことをしなければいけないようだ。

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