【日記】今日までのこと
愛とは
ビッグ・クエスチョンというのを最近よく聞くが、問うに問えないような、大きな疑問に、あえて答えを出してみようと思った。
曰く、愛とは何だろうか。
いろんなものの愛があるが、特に、人を愛するというのはどういうことか。
それは、その人の強さを一番よく知ること、なのだと思った。
人は、理性的人間、言語を使う人間であるが、それ以前に、生存の波に揉まれつつ、生きてきた生物であり、そのどの段階、どのレベルにおいても、自分を成り立たせるために、自分自身をつねに鼓舞しつづけ、現在までその存在を成り立たせおおせたものである。
なので、その人が日々周囲に発揮するものとは、その人をその人たらしめる力、その強さなのである。
容姿や精神、肉体的特徴や性的な差異、能動的や受動的な行動などに還元されがちであるが、そういうものは表面的なことで、根底に流れているのは、たえず環境の側に吹き付ける熱風のような、生命体としての抵抗のようなもの、それを感じつつその性質を知ることが、人を愛するということなのではないか。
いかんせん、根源的すぎて、そんな事を言語化する人もいないし言語化しても仕方がない。そういうものなのかもしれない。
読書
引き続き、柄谷行人の『日本近代文学の起源』、の「事実面」を確認するため、「武蔵野」を読んでいる。
焦点が逸れるが、国木田独歩という作家は、どんな人だったのか。
そんな事も知らずにここまで来ていた。
しかし、今、国木田独歩の小説を、正面据えて読んでいる人は、どのくらいいるのだろうか。
どこか、懐古趣味みたいなものに埋没していないかどうか。読書をするにあたって、必ずこの疑問が頭を過る。
それに対しては、「その反対である、完全な現在というものも、仮想的にしか存在しないのだから、……」云々と理屈で言い返す事もある。が、それが本当に自分の頭の中で腑に落ちているのかといえば、怪しい。
国木田独歩は、描写と、人物の比率において、価値が転倒していて、それが一番早くて著しい、というのが、柄谷行人の主張だった。
『武蔵野』という短篇集の、三作目にあたる「わかれ」、これは前二作とは違い、文語体で書かれている。『武蔵野』の短篇の配置は、作者自身が考えたものだというから、この配置にするということは、おのずと、この口語体→文語体という変わり目も、意識していたのではないかと思える。
当時、どちらの方が、国木田独歩にとっては自然に書ける文体だったか。柄谷行人は、口語体がもう完全に身体に染み込んでいる状態で書かれたものだから、『武蔵野』、とくに「忘れえぬ人々」はエポックなのだ、と言っていた。
が、「わかれ」もなかなか見事な文章の配置をしていると思った。その後の何篇かも、文語で書かれている。
僕の感性があっているかどうか、はなはだ怪しいけれども、「わかれ」の場面の作り方、とくに人物の出てくる順序というのか、その感触が、ヘミングウェイに近い、と感じた。
大雑把に言って、人というものに距離を取った状態で、文章の主体がフォーカスを絞っている、という所には、共通点があるのではないか。
まだ三篇しか読んでいないので、分からない。